私に何か優しい言葉をかけてくれたりすると、その度毎《たびごと》に、私は殆んど気づまりなような思いをした位であった。――しかし、そのための打撃はその頃私の信じていたほど、決して軽いものではなかったのだ。その本当の結果は、唯《ただ》、私の意識の閾《しきい》の下で徐々に形づくられつつあったのだ。そして村全体が平穏になり、私の心の状態も漸く落着いて、殆んど平生どおりになったと思えるような時分になってから、突然、その苦痛ははっきりした形をとり出して来たのである。
この小さな物語の始まる頃には、その村はいま言ったように、漸く静かな呼吸をしだしていた。
といってまだ、それはすっかり旧に復していたとも言えなかった。その村には以前には無かったものが附け加えられているように見えた。丁度洪水の引いた跡にいつまでもあちこちに水溜《みずたま》りが残っているように、この村にはまだ何処《どこ》ということなしに悲劇的な雰囲気《ふんいき》が漂っていたのだ。……
例《たと》えば、村の人々の間にはこんな噂《うわさ》がされ出していた。この頃、この村へ地震のために気ちがいになった一人の女が流れ込んできている。その女は、地震の際にその一人娘からはぐれてしまい、それきりその娘が見つからないのでもう死んだものと思い込んでいた矢先き、焼跡でひょっくりその娘に出会い、その言いようのない嬉《うれ》しさのあまり、其処《そこ》にあった瓦《かわら》でその娘を撲《なぐ》り殺してしまったと言うことだった。――その噂は私をどきりとさせた。「母親というのはそんなものかなあ……」とそれから私はそれを胸を一ぱいにさせながら考え出していた。――或る日、私はその小さな村を真ん中から二等分している一すじの掘割に、いくつとなく架けられている古い木の橋の一つの袂《たもと》に、学校帰りらしい村の子供たちが一塊《ひとかたま》りになっているのを認めた。私が何気なくそれに近づいて行くと、環《わ》のようになっていた子供たちがさっと道を開いた。見ると、その子供たちに取り囲まれているのは、襤褸《ぼろ》をまとった、一人の五十ぐらいの女だった。髪をふりみだし、竹で出来ている手籠《てかご》のようなものを腕にぶらさげていた。その中には何んだかカンナ屑《くず》のようなものが一ぱい詰まっているきりだったが、それがその女には綺麗《きれい》な花にでも見えているのかも知れないと思えるほど、大事そうにそれを抱《かか》えているのが私を悲しませた。のみならず、その籠には何処か孔《あな》でもあいていると見えて、その女の歩いてきた跡には細かいカンナ屑がちらほらと二三片ずつ落ち散っていた。その女はしかし、そんなものも、それから自分を取り囲んでいる村の子供たちをすら殆んど認めていないような、空虚な目つきで、じっと自分の前ばかり見まもりながら、いかにも上機嫌《じょうきげん》そうに、ふらりふらりと歩いていた。――私は村びとの噂にばかり聞いていたその気ちがいの女をこうして目《ま》のあたりに見、そしてそれが私の死んだ母と殆んど同じ年輩で、そのせいか、どこやら私の母と似通っているような気もされてくるや否や、急に私の胸ははげしく動悸《どうき》しだして、どうにもこうにもしようがなくなった。私は暫《しばら》くじっとその場に立ちすくんだきりでいた。そうして、母の死が私に与えた創痍《そうい》も殆んどもう癒《いや》されたように思い慣れていたこんな時分になって、突然、そんな工合にひょっくり私のうちに蘇《よみがえ》ったその苦痛が、今までのよりずっとその輪廓《りんかく》がはっきりしていて、そしてその苦痛の度も数層倍|烈《はげ》しいものであることを知って私は愕《おどろ》いたのであった。
私はその村で、それきりその気ちがいの女を見かけなかった。あのような苦痛を私に与えたその女に再び出会うことはどうも恐ろしいような気がしていたが、一方では又、その時の苦痛くらい生き生きと母の俤《おもかげ》を私のうちに蘇らせたものがないので、私は妙にその気ちがいの女を見たいような気もしていたのだった。……
私たちのしばらく借りて住んでいた田舎家は、赤茶けた色をした小さな沼を背にしていた。私の父は本所に小さな護謨《ゴム》工場を持っていた。それが今度すっかり焼けてしまったので、その善後策を講ずるために、殆んど毎日のように父は出歩いていたので、私はいつも一人で留守番をしていた。私は僅《わず》かな本を相手に暮らしていた。「猟人日記」が好きになったのも、この時であった。私の部屋の窓からは、いまにも崩《くず》れそうな生墻《いけがき》を透かして、一棟《ひとむね》の貧しげな長屋の裏側と、それに附属した一つの古い井戸とが眺《なが》められた。しかし、井戸端《いどばた》と私の窓との間には、数本、石榴《ざくろ》の木
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