やなんかがあったり、コスモスなどが折から一ぱい花を咲かせながら茂るがままになっていたので、その井戸に水を汲《く》みに来る女たちのむさくるしい姿はどうにか見ずにすんだが、彼女等が濁った声で喋舌《しゃべ》り合っているのは絶えず聞えてきた。その話し声は気になりだすと、どうもうるさくて仕方がなかったが、それでいて何を話しているのか聞いてやろうとすると、いくら耳を傾けても、はっきり聞きとれないほどの、それは遠さであった。それが私にはなんだか解《わか》りにくい田舎訛《いなかなま》りで喋舌られているかのように思えた。
或る日、私の父は私に、いつまでこうしていてもしようがないから、私の学校の始まるまで、ひとつ田舎でも旅行して来ようかという相談を持ちかけた。何んでも父の話では、二三の地方のお得意先きに貸し放しになっている所があるから、それを取り立てながら田舎へ旅をして廻ろうと言うのであった。その旅行の計画は私をすっかり有頂天にさせた。それらの見知らない地方、見知らない風景、その行く先き先きで私の出会うかも知れないさまざまな冒険、それらのものが私の心を奪ったのだ。私はまだ、真の人生というものは、そんな遠い見知らない土地にばかりあるものと思っていた年頃だったから。
が、その旅行の計画は、そのうち急に焼跡にバラックを建てることになり、父はその監督をしなければならなくなったので、中止になった。私の子供らしい夢は根こそぎにされた。そればかりでなしに、それは前よりも一層私の田舎暮らしの惨《みじ》めさを掻《か》き立てるような結果にさえなった。
私の父は、大抵日の暮れる時分に焼跡から帰ってきた。もう薄暗くなり出しているのに、電燈もつけないで、読みさしの本を伏せたまま、私がぼんやり横になっているのを見ると、私の父は気づかわしそうな目つきで私を見下ろしながら、しかしその優しい感情を強《し》いて隠そうとするような、乾《かわ》いた声で私を叱《しか》るのだった。
十月になった。村はますます静かになって行った。そうしてその頃までまだ何処かしらに漂っているように見えた悲劇的な雰囲気がだんだん稀薄《きはく》になればなるほど、その村に於《お》ける私の悲しい存在はますますそのなかで目立って来そうに思えた。そして私自身にとっても、日が経《た》てば経つほど、あべこべに、私の周囲はますます見知らない場所のように思われて来てならない位であった。
私は或る日、同じ村の、おじさんの家へ遊びに行って、その物置小屋に古い空気銃が埃《ほこ》りまみれになっているのを見つけた。私はそれを携えて、近所の雑木林の中へぶらつきにいった。私は、「猟人日記」の作者の真似をしようとした。私は林のなかで、それが何んという名前の小鳥だかも如らずに、見つけ次第、出たらめに打った。一羽もあたらなかったが、そんなことは私にはどうでもよかったのだ。そうしてひさしぶりに快く疲れて、日の暮れ方、私は空気銃を肩にしながら、掘割づたいに、小さなきたない農家のならんでいる、でこぼこした村道を帰ってきた。その途中、私はそれらの家の一つの前を通り過ぎながら、ふと、それだけが他の家からその家を区別している緑色にペンキを塗った窓から、十七八の、小さく髪を束ねたひとりの少女が、ぼんやりおもての方を見ているのを認めた。窓枠《まどわく》を丁度いい額縁《がくぶち》にして、鼠《ねずみ》がかった背景の奥からくっきりとその白い顔の浮び出ているのが非常に美しく見えたので、私はおもわず眼を伏せた。
「この村にもこんな娘がいたのかなあ……」
私はこの日頃、父との旅行の計画を立てながら、あんなにも夢みていた、そしてそれは遠い見知らないところにのみあると思っていた「人生」が、私からつい数歩向うの窓に倚《よ》りかかっているのを、こんなに思いがけず発見して、私はなんだかどぎまぎしていた。そして私は、その娘のもの珍らしげな視線をいつまでも自分の背中に感じながら、其処を通り過ぎていった。その日は、私は二三日前或る友人の送ってくれた、そのお古の、すこし小さくて私の体によく合わない、高等学校の制服をちょこんと着ていたし、おまけに空気銃などを肩にしていたので、そんな私の後姿がいかにもその娘に滑稽《こっけい》に見えそうでならなかった。
自分の家へ帰って来てからも、私は何もしないで、窓のすぐ向うの井戸端で、鶏が騒いだり、水を汲みに来ている女たちが口々にしゃべっているのをぼんやりと聞いていた。いつもは私の聞きづらがっている、それらの田舎言葉さえ、何んだか遠い見知らない土地に来てそれを聞いてでもいるかのように、私にはなつかしく思われた。……
父が帰って来ると、私はいつになく、元気よく父と一しょに台所へ行って、さも面白いことでもするように、茶碗《ちゃわん》や皿を洗ったりし
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