た。
 その日から、私は空気銃を肩にしては、毎日のように近くの林の中をぶらつき、日の暮れ方、その窓の前を少しおどおどしながら通った。それは村に一軒しかない医者の家だった。空気銃は、そんなものを子供らしく自分が肩にしているのをその娘に見られたくはないと思いながら、しかもそれはそんな私の散歩の唯一の口実にさえなっていた。――が、その後、私はその「窓の少女」をついぞ一ぺんも見かけなかった。

 そのうちに、夏休みのまま、地震のために延ばされていた秋の学期がそろそろ始まりかけた。私は寄宿舎へ帰らなければならなかった。で、私はこれがもうこの村の最後の散歩かと思って、いつものように窮屈な服をつけ、空気銃を肩にして、何処に行ってもコスモスの咲いているその村をあちらこちらと歩き廻っていた。
 そうしていると、秋ながら、汗の出てくるほどの好い天気だった。……すこし草臥《くたび》れたので、私はとある小さな林の中にはいって、一本の松の木の根に腰をかけながら、足を休めていた。私は暫く其処にそうして、ときどき自分の頭上の木と木の間を透いて見える水のような空を見上げながら、ぼんやりと煙草をふかしていた。
 そのとき私は向うから草の中を押し分けながら、すこし急ぎ足で、こっちへ近づいてくる一人の娘に気がついた。私はそれが村医者の娘であることを認めた。どうも私のいる林を目あてに近づいて来るらしい。だが、こんなところに不意に私を発見して、なんだか私が彼女を待ち伏せてでもいたようにとられはしないかと気を廻して、私はいきなり立ちあがった。そうして空気銃を肩にあてがって、何にもいやしないのに、そこに小鳥でも見つけたかのように、一本の木の梢《こずえ》を覗《ねら》って、引金を引いた。乾いた銃声があたりのしっとりとした沈黙を破った。
 私はその間も横目でこっそりと娘の方を窺《うかが》いながら、自分の臆病《おくびょう》な気持と闘っていた。その銃声でもってそこに私が居ることにやっと気がついて、彼女はちょっと逃げようとするような身振りをしたが、その瞬間、私は惶《あわ》てて振りかえって、お辞儀をした。彼女は気まり悪そうに笑いながら、私の方に近づいてきた。
「ああ、逃がしちゃった。」私は再び頭を上げながら、すこし上《うわ》ずった声でひとりごちた。
 すると娘も私の見上げている木の梢を見上げながら、
「何をお打ちですの?」と私に応《こた》えた。
 私たちの見上げている木の枝からは木の葉がひらひらと二三枚静かに落ちてきた。しかし、そこには小鳥なんぞの飛び立ったような気配はない。私のトリックは曝《ば》れそうだった。そのとき私は目ざとく、彼女の肩に一枚の木の葉がくっついているのを見つけて、
「やあ、肩に葉っぱがくっついてらあ!」と頓狂《とんきょう》な声を出した。
 気味のわるい虫でも肩についているのを見つけたような、私の大げさな言い方は、彼女の目を梢の先きから離れさせるには十分だった。しかし、ふり向いた途端に、その木の葉は彼女の肩から地面に落ちてしまった。私はさも困ったような顔をしていた。
 このような娘と二人きりの林のなかでの出会は、私のあんなにも夢みていたものであったのに、さて、こうしてその娘と二人きりになってみると私はもう彼女から逃げることばかりしか考えなかった。何んと! その口実に私はこの娘はどうも自分の好きなタイプじゃないなどと唐突に考え出していた。そうしてそのまま二人は気づまりそうに黙り合っていた。そのうち娘の方でちらりと顔をしかめた。誰かが私の背後の灌木《かんぼく》の茂みの向うの草の中をごそごそ云わせて近づいてくるのを私より先きに認めたからだった。……
 数分後、私は以前のように一人きりになって、再び松の木にぼんやり靠《もた》れかかりながら、私の背後の灌木の茂みの向うで、この村特有の訛《なま》りのある若者らしい声でこんなことを言っているのを、聞くともなく聞いていた。
「ずいぶん捜していたんだよ。」
「そう……」娘の返事はいかにも気がなさそうに見えた。
 それっきり彼等は無言で、草をごそごそ踏み分ける音だけを立てながら、私からだんだん遠ざかって行った。

 夕方、家へ帰ってくると、私は窓をすっかり開けて、その窓の近くに負傷をした小さな獣のように転《ころ》がっていた。そうしてその窓のそとからはいってくる、井戸端の女等の話し声や、子供の叫びや、土の匂《にお》いや、それからそれに混っている、コスモスのらしい匂いだのが、痛いほど私の傷に沁《し》みて来るのを私はそのままにさせておいた。
 父の帰りが私をそんな麻痺《まひ》したような状態から蘇らせた。
「おい、そんなことをしていると風邪《かぜ》をひくぞ。」
 父はいつもの、その優しい感情を強いて私に見せまいとするような、乾いた声で私を叱った。
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