しかし私は前よりもっと小さくなって転がっていた。私の父は私がまた母のことを思い出してそんな風に悲しそうにしているのだと信じているらしかった。それが私には羞《はず》かしかった。……
私はこういうY村に於ける私の悲歌《エレジイ》をいつか一ぺん書いて置きたいと思っていた。それから数年後の、或る秋晴れの日だった。私は自転車に乗って、その村を一周《ひとまわ》りして来ることを思いついた。私は地震のとき、跣足《はだし》になって逃げて行った道筋のとおりに、うすぎたない場末の町のなかを抜けて行った。多くの工場が、入れかわり立ちかわり、同じようなモオタアの音をさせながら遠くまで私について来た。とうとう私は川に架《かか》っている一つの長い木の橋の上へ出た。Y村がやっとその川向うに見え出した。
私はその橋に差しかかりながら、その橋の真ん中近くに人立ちのしているのを認めた。橋の欄干がそこだけ折れていて、その代りに一本の縄《なわ》が張られていた。私も自転車から降りて、人々の見下ろしている川の中を覗《のぞ》いて見た。数日前、そこから一台の貨物自動車が墜落したものらしかった。しかし、その橋の下には一面に葦《あし》が茂り、それが一部分折られているだけで、その他にはもう其処には何も見えなかった。それだのに、人々は何かが其処にまだ見えでもするかのように、その惨事の痕《あと》をじっと見入っていた。
私は再びペダルを踏みながら、やっとその長い橋を渡りきり、そしてそのままY村にはいって行った。遠くからその全体を見渡したときは、なんだか此処《ここ》もこの数年間にすっかり変ってしまっているように思えた。それほど見知らない大きな工場が、沢山出来てしまっているのだ。が、その村を二等分している真っ黒な掘割に沿うてすこし行き出すや否や、ことにその上に架っている多くの小さな木の橋と橋との間に、いまを盛りにコスモスが咲きみだれ、そしてその側に誰もいないのに四つ手網だけがかかっているのを見出した時には、突然、その村でのさまざまな思い出が私のうちに一どきに蘇《よみがえ》って来て、私は心臓がしめつけられるような気がした。そうして私は自転車ごと殆《ほと》んど倒れそうになった。私にはとてもこれ以上先きへ進むことは出来そうもないように思えた。……そのとき、その道ばたの一軒の茅葺《かやぶき》小屋の中から、襤褸《ぼろ》をきた小さな子供が走り出してきて、その四つ手網を重そうに一人で持ち上げだした。その網の中には、きらきらと光りながら跳《は》ねているのでそれと分るような、小さな魚が二三匹ひっかかっていた……
私はやっと決心しながら、自転車を反対の方向に廻して、その村からずんずん引っ返していった。
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註一 「わたくしは幼い時|向島《むこうじま》小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋《まくらばし》を北へ渡って徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人《いちびと》の墓が多い。……」
これは鴎外の『澀江抽斎』の一節で、抽斎の師となるべき池田京水の墓を探《さが》し歩いたときの記事である。大正四年の暮のことだそうで、そのころ私は十二三になっていた。丁度毎日のようにその常泉寺のほとりで遊んでいたので、此処《ここ》を読んだときは云い知れずなつかしい気がした。
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底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年8月5日発行
1970(昭和45)年1月30日16刷改版
1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:三つの挿話は「暮畔の家」「昼顔」「秋」の三篇から成る。
暮畔の家:「時事新報」(夕刊連載の「東京新風景」第10回目に「本所」の表題で。)
1931(昭和6)年3月21日、22日、24日、25日、26日、27日
加筆訂正後、「墓畔の家」の表題で「作品」に。
1932(昭和7)年4月号
昼顔:「若草」
1934(昭和9)年2月号
秋:「文藝」(「挿話」の表題で。)
1934(昭和9)年2月号
初収単行本:三つの挿話は「暮畔の家」「昼顔」「秋」の三篇から成る。
墓畔の家:「狐の手套」野田書房
1936年(昭和11)年3月20日
昼顔:「幼年時代」青磁社
1942(昭和17)年8月20日
秋:「物
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