も見えなかったけれど、私はふとその閉め切った障子の奥に誰かが居るような気配を感じ、その瞬間私にはその人が何んだか私の母をもうすこし若くしたくらいの年恰好の美しい婦人であるように思われてならないのだった。(が、今考えてみると、そういうようなすべては、その小家を埋めるようにしていた、それらの黄だの白だのの見知らぬ花々の微妙な影響に過ぎなかったのかも知れない。……)
その小家のあたりから、道は両側とも竹垣に挾《はさ》まれながら、真直《まっすぐ》に寺の庫裡《くり》の方に通じているらしかった。その竹垣の一方はまださっきから見え隠れしている庭の続きであったが、もう一方はいつのまにか大小さまざまな墓の立ち並んだ墓地になっていた。私たちはその墓地の方へ抜け出ようとして、その竹垣を乗り越すのにいろいろな苦心をした。
私たちがそんな寺の裏の、いかにも秘密に充《み》ちたような抜け道(?)をたった一遍きりしか通ったことのないのは、その時まだその竹垣をみんなで乗り越してしまわないうちに、寺の爺たちに見つかって、散々な目に遇《あ》ったからだ。その時くらい爺たちが私たちに向って腹を立てたことは今までにもなかった。爺たちは二人がかりで、何処までも私たちを追いかけて来た。――そのときは私たちも何んだか興奮《こうふん》して、墓と墓の間をまるで栗鼠《りす》のように逃げ廻りながら、口々に叫んでいた。
「赤鬼やあい……青鬼やあい……」
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昼顔
その小さな路地の奥には、唯《ただ》、四軒ばかり、小ぢんまりした家があるきりなのである。ちょうど水戸《みと》様の下屋敷の裏になっていて、いたって物静かなところである。
その路地をはいって右側には、彫金師の一家が住んでいる。そのお向うは二軒長屋になっていて、その一方には七十ぐらいの老人が一人で住んでいる。五六年前に老妻を亡《な》くなしてから、そのままたった一人きりで淋《さび》しいやもめ暮らしをしているのである。その隣りには、お向うの彫金師の細君のいもうと夫婦が住んでいる。亭主は、河向うの鋳物《いもの》工場へ勤めているので、大抵毎日その細君は一人で留守居をしている。その路地の突きあたりの家は、そこ一軒だけが二階建になっていて、主人はやはり河向うの麦酒《ビール》会社に勤めている。あとにはその老母とまだ若い細君が静かに留守居をしているきりである。そんな寂しいくらいの路地のなかに、いつも生気を与えているように見えるのは、彫金師の一家だけである。ずっと奥の、別棟になった細工場からは、数人の職人がいつもこつこつと金物を彫っている仕事の音が絶え間なしに聞えて来るのであった。……
その年の春頃から、その彫金師の、それまでは家人だけの出入り口になっていた、蔦《つた》などのからんだ潜《くぐ》り戸に「古流生花教授」という看板がかかるようになった。その数カ月前から立派な白髯《はくぜん》の老人がいつも大きな花束をかかえて屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》その家に出はいりしていたが、そんなことを好きな一面のあるこの家の夫婦をおだてて、そこをとうとう自分の出張所にしたのである。それからやがて木曜日ごとに、町内の娘たちが五六人それを習いに来るようになった。そうしてその午後になると、その路地には、いままでに聞いたことのない、花やかな、若い娘たちの笑い声が起るようになった。……
その日だけは、息子《むすこ》の弘は、中学校から帰ってくると、自分の勉強間にしている奥座敷が娘たちに占領されているので、いつもお向うの、おばさんの家へ追いやられてしまう。おばさんの家は狭かったが、格子戸《こうしど》を開けて入ったすぐ横の三畳が茶の間になっていて、そこの長火鉢《ながひばち》の前でおばさんはいつも手内職をしているきりなので、弘は奥の八畳の間を一人で占領して、茶ぶ台を机の代りにして、その上で夢中になって帳面に何やら円だの線だのばかりを描いている。……
※[#アステリズム、1−12−94]
その日は、二三日うちに牛島神社のお祭りが始ろうとする日のことである。九月も半ばに近かった。
弘はさっきからおばさんの家の八畳の間で、しきりに勉強をやっている。相変らず帳面に円だの線だのを引張っているのである。その日はおばさんが、中洲《なかす》の待合の女中をしているその姉のところに頼まれてあった縫物を持って出かけていったので、一人で留守番をさせられている。自分の家からは、職人たちの金物を彫っている metallique な音に雑《ま》じって、ときおり若い娘たちの笑い声が聞えてくる。今度のお祭りには、弘の父のきもいりで、町内に屋台をこしらえて、そこに娘たちの生花を並べようというので、さっきから白髯の師匠や代稽古格《だいげいこかく》の
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