叔父さんは?」
「ずっと東京よ……また痩《や》せっぽちが二人寄ってたかってきっと笑うことよ」
「ふ、ふ、僕もここへ来る途中で考えたんですがね……」
「…………?」
「あのね、昔はそれでも、叔母さんと僕とで目方を合せると叔父さんのよりは五|瓩《キロ》ぐらい多かったでしょう。でも、もう駄目《だめ》なの。……僕はあの頃から見ると五瓩はたっぷり減ってしまったからなあ」
「そのかわり、叔母さんはすこし肥《ふと》ったでしょう?……」
 そう言われても、彼はもう叔母さんの方を見ようともしないで、元気なくじっと目をつぶっていた。……


 その羊歯の密生している叔母の別荘には、去年まではスコットランド人らしい老夫婦がいかにも品よさそうに暮していた。毎年の夏、彼は散歩の折などこのへんの草深い小径が好きでよくこの家の前を通ったものだが、その度毎《たびごと》にいつもその老夫婦がヴェランダに出て黙ったまま、お茶かなんか飲み合っているのを見かけたものだった。なんでも三十年近く日本で宣教師をしている人だそうだが、そんな宣教師というよりも寧《むし》ろ哲学者かなんかのように見えた。この高原のどんな小径にでも勝手な名前をつけたがる西洋人に倣《なら》って、彼もこのへんの小径を自分勝手に Philosophen《フィロゾフェン》 Weg《ウェグ》 と呼んでいたくらいだったのに。……あの老夫婦もとうとう彼等の任期を了《お》えて故国にでも帰ったのかしら。――そう云えば、この老夫婦が他の亜米利加《アメリカ》の宣教師たちと異《ちが》って、いかにも趣味のいい、そして地味な暮し方をしていたらしいのは、彼等が彼等に代ってこの別荘に入るであろう人達のために残して行った幾つかの古びた家具類、――例《たと》えば大きな寝台とか、がっしりした食卓とか、稚拙な彫りのある椅子などを見れば分かる。どれもこれも三十年ぐらいはごく注意して、傷一つつけずに、使い通してきたものらしい。たとえ異国であろうとも、こんな風にごく上等な品物をごく長い間使い慣らしていた老人たちの心柄は、ただ質素であると云ってしまうにはあまり奥床しく思われる。――彼はそれらの家具類の間にちょこんとしている一つのごく小さな椅子に、丁度五六歳の子供にしか掛けられないような一つの椅子にふと眼を止めた。その小さな椅子は木質の古びと云い、それに彫られてある模様の稚拙な感じと云い、いずれも他の古椅子とあまり変らなかった。これはひょっとすると彼等が三十年前スコットランドから日本へ移住して来た時他の家具類と一緒に向うから持ってきた物かも知れない。そのとき彼等には丁度五つか六つぐらいになる子供が一人あったのだろう……だが彼はこれまでついぞそういう彼等の息子《むすこ》らしいものを見かけたことは無かったけれど……その息子、と云っても今ではもう三十以上になっているに違いないが、彼は自分の職業のために一人で故国に帰っていたのだろうか、それとももしかしたらもう死んでしまっているのであるまいか?……いずれにせよ、この可憐《かれん》な椅子がそれを見る度毎に彼等老夫婦の心を慰めていたであろうことは容易に想像される。そうしてこの別荘を立去る時、その老夫婦はこの椅子一つのためにどんなに心をなやましたことであろうか?
 ……それらの古びたいくつかの家具がしめやかに語りだすところの、そう云うロマンチックな物語に耳を傾けながら、それらの語り手の一人である、すこし彼には大き過ぎる寝台の上に、到底眠れそうもないと思いながら横になっているうちに、彼はいつしかすやすやと寝入った。……


 夕飯のときである。彼は叔母と一しょに食堂の、それひとつあれば七八人ぐらいのお客には充分間に合いそうな、大きな円卓子《まるテエブル》につこうとして、さて、それがあんまり大き過ぎるので、何処へ坐ったらいいのかまごまごした。
「どうも具合が変だなあ……」
「すこし遠くても、向い合って坐った方がよくってよ。……でも、二人になったから、これでもまだ恰好がつくのよ。私一人のときは、ほんとうに持て余してしまった……」
 彼は彼女の云うとおりに彼女と差し向いに坐った。しかし、卓子の向側とこちら側で話し合うには、よほど大きな声を出さなければ聞えないような気がした。そこで彼は食事の間だけ沈黙することにした。そのかわりに彼は食事をしながら、その食卓掛けのよく洗濯《せんたく》してあるけれど色がひどく剥《は》げちょろになっているのや、アルミニウムの珈琲沸《コオフィイわか》しの古くて立派だけれどその手がとれかかっていると見えて不細工に針金でまいてあるのや、どれもこれもちぐはぐな小皿に西洋草花が無邪気に描かれてあるのやを一々丁寧に眺《なが》めまわしていた。これらの物もみんな前の老夫婦が置いていったものらしい。……
 そのとき彼は、例の子供の椅子に関する彼の意見を叔母に話したい欲望を感じた。探偵小説ばかりを読んでいるせいか、他人の身の上などを空想することの好きな叔母はことによると彼よりもっと細かな観察をしているかも知れない。彼はしかしそれを言うのを止《や》めた。彼には卓子の向側にいる叔母に向って普通より大きな声で話しかけなければならないのが物憂かったのだ。


 一種の神経衰弱に罹《かか》ったところの病人は、二日も三日も平気で眠りつづけると言われる。数年前、彼はその軽いやつに罹ったことがあった。――その時の症状が思い出されてならないほど、この頃の彼はひっきりなしに眠たい。すこし我慢して起きていると眠気で床の上に倒れそうになる。病院での睡眠不足を一時に取戻そうとするがごとくに彼は眠りつづける。その病院では看護婦たちに持て余されたくらい神経質になった彼は、ここでは――このしっとりした落着きのある山荘のなかでは、そうして彼の叔母のクラシックな愛のなかでは、彼はまるで母親に抱かれた子供のように前後を知らず深い眠りに落ちた。事実、彼はここへ来てからもう何日になるのか、十日になるのか、二十日になるのか、それとも一週間にしかならないのか、それすら思い出せない。そうして昨日のことが一昨日のことより昔のように思える。
 叔母のところへは毎日のように彼女と同年輩ぐらいの女の客が訪れてきた。そういう女客ばかりが二三人一しょに落ち合うようなこともあった。「みんな私の学校友達なのよ」叔母はそう言っていたが、いずれ叔母に聞いてみればそれぞれ由緒《ゆいしょ》のある貴夫人たちなのであろうけれど、そういう貴夫人たちというものはどんな会話をするものかしらと、一度二階の彼の寝室からじっと耳を傾けて聞いていると、自分の別荘の裏の胡桃《くるみ》の木に栗鼠《りす》が出たとか、野菜がどうだとか、薪《まき》がどうだとか、そんな話ばかりしているので彼はひとりで苦笑した。
 そういう時には、彼は誰にも見つからないように、二階から降りてこっそりと台所の裏へ出て行った。そこには落葉松が繁茂していて涼しい緑蔭をつくっていた。彼はいつもそこへ籐の寝椅子を持ち出してごろりと横になった。其処《そこ》からはよく伸びた落葉松のおかげで太陽がまるで湖水の底にあるように見えた。どうかすると彼はそこでそのまま眠ってしまうこともあった。
 そんな日のある日、もう客が帰った跡と見えて、その裏庭に面したフレンチ・ドアに叔母がぼんやり凭りかかっているのを見つけると、
「叔母さん」
 と彼はその寝椅子の中から声をかけた。
「ここにこうしていますとね、僕はきっとドロシイのことを思い出すんですよ……どうしてかしら?」
 叔母さんはまだぼんやりしている。よほどお疲れになったと見える。
「ドロシイは今年は来ていませんの?」彼はうるさく質問するのである。
「ドロシイさんの家は何でも去年カナダへお帰りになったそうよ」
「そうですか。――おや、おや、僕は年頃のドロシイが見たかったんだがなあ……」


 ……数年前、彼はそのドロシイの隣りの別荘に一夏を暮したことがあった。やはり叔母と一しょに。――その頃ドロシイはまだ七つか八つ位であった。彼はときどきそのドロシイや彼女の小さな妹たちと一しょになって遊んだ。ドロシイは綺麗《きれい》な女の子で彼女の美しい名前によく似合っていた。日本語も上手だった。しかし彼と話をしているうちに日本語が分らなくなると英語でしゃべった。そうして英語などで人としゃべったことのない彼を一寸《ちょっと》黙らせた。そういう時いつまでも彼が黙っていると、彼女は何だか困ったような真面目《まじめ》な表情で彼を見上げるのであった。彼はそういう表情を美しいと思った。――或《ある》時、彼はドロシイとその小さな妹とを連れて、オルガン岩のほとりへ散歩に行った。その散歩の間、ドロシイは絶えずはしゃいでいたが、その帰途、突然一つの小さな崖《がけ》の上へよじのぼってしまった。それは彼女によじのぼることはどうにか出来ても、そこから下りてくることは危険に思われるほどの急な傾斜だった。どうするだろうと思って見ていると、ドロシイはちょっとその傾斜を見て首をかしげていたが、いきなりそこを駈《か》け下りてきた。あぶない! と彼が叫ぶのと殆《ほとん》ど同時に、彼女は途中で足を滑《すべ》らしながら、彼の足許《あしもと》へもんどり打って落ちてきた。……しかし彼女はすぐ起き上った。見ると彼女の白い脛《はぎ》には泥がつき、何かで傷つけたらしく血が滲《にじ》んでいた。彼女はしかしそれを見ても泣かずにいた。ともかくもすぐそこのホテルまで連れて行って何とかしてやろうと思いながら、その怪我《けが》をした少女とそれからもう歩き疲れているらしいその妹とを二人、両手に引張ってホテルに向って歩いてゆく彼の方がよほど気が気でなかった。そのうち彼はこりゃ俺《おれ》の方がすこしあやしいぞと思い出した。……彼はどうかした機会に、血を見ると、それが自分のであろうと、他人のであろうと、すぐ脳貧血を起してしまう癖があった。そうして今も今、彼はドロシイの白い脛に薔薇色《ばらいろ》の血が滲み出ているのを見ているうちに、どうやらそいつを起したらしいのである。彼はホテルの玄関の次第に近づいてくるのを、うるさく顔にまつわりつく蜘蛛《くも》の巣のようなものを透して、やっとのことで見分けていた。……
「ブランディ! ブランディ!」
 一人の西洋人がそう叫んでいるらしいのを彼はすぐ顔の近くに聞いた。それから彼は、自分がホテルの床板の上にあおむけに倒れながら、誰かに自分の足を宙に持ち上げられているらしいことに気がついた。それと同時に甘ったるいような香水のかおりを彼は臭《か》いだ。彼を介抱してくれているのは西洋人の夫婦らしかった。
「ブランディ!」
 彼の足を持ち上げていてくれるその西洋人は、漸《ようや》く意識を回復しだした彼の上にかがみながら、ボオイの持ってきたらしい琥珀色《こはくいろ》のグラスを彼の唇《くちびる》に押しあてた。彼はそれを一息に飲み干した。
「…………?」
 彼はその親切な西洋人たちにどんな言葉で感謝を示したらいいのか分らなかったので、ただにっこりと笑って見せた。
 その時彼の額へ手をやっていたその細君らしい西洋婦人がひょいとうしろを振り向いたので、その方へやっと頭を持ち上げながら彼も見てみると、ホテルのポオチのところにドロシイとその妹は、丁度ホテルへ遊びにでも来ていたと見える彼女らの友達らしい五六人の少女たちに取りかこまれていた。そうして一種の遊戯かなんぞをしているように、ドロシイの説明を聞こうとしていくつもの金髪を一とところに集めているそれらの少女たちの姿は、まだすこし頭の痺《しび》れている彼には、あたかも葡萄《ぶどう》の房《ふさ》のようにゆらゆらと揺れながら見えた。……


 ……ここにこうして居ると、そういう数年前の光景の一つ一つが、妙に生き生きと彼の心のなかに蘇《よみがえ》ってくるのは、どういう訣《わけ》かしらと考える度毎に、彼はこの樹蔭《こかげ》に何かしら一種特別な空気のあることに気づかないではなかったけれど、つい面倒くさいので彼はそれをそのままにして
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