おいた。だが、或る日のこと、いくらか気分のよかった彼はその原因を調べてやろうと思い立った。そこの樹蔭は奥へ行けば行くほど彼が名前も知らないような雑草が茂るがままに茂っていた。これはきっとこの雑草の中に何か特別な香《かお》りを発するものがあって、それが彼の記憶を刺戟《しげき》するのかも知れないぞと思った。そこで彼はこの雑草のなかを鼻孔をひろげながら出たらめに歩き廻ってみた。なるほど、何かが特に強く匂《にお》っている。――それを嗅いでいると、なんだか気持がすうすうしてくる。おや、おれはまた脳貧血をやりそうだぞ、と彼がちょっと錯覚を起しかかったくらい、その香りは彼の発作の直前の気持を思い出させる。こいつだな、と思って彼はその香りをたよりに、その香りの生じていそうなところをむき[#「むき」に傍点]になって捜したけれど、それが一面に茂っている雑草のどの辺であるのかすら一向に見分けがつかなかった。だが、その香りは何処かしらからますます鮮明に匂ってくる。彼はそこにぼんやり佇《たたず》んだまま、何となく自分が盲目になったような感じさえ持ち出した。……
 だが、彼は遂《つい》にその香りの正体を捜しあてた。彼の足が偶然にもそれを踏んづけたのである。彼の足もとには、暗緑色の細かい葉をもった草が一かたまりになって密生していた。その一つを手折って見ると、その葉は縮緬《ちりめん》の皺《しわ》のようにちぢれていて、それが目にしみるほどの強烈な光りを放っていた。何かの匂いに似ていると思ったけれど、どうしてもそれが思い出せなかった。彼はそれを叔母のところへ持って行った。
「叔母さん、これ、何という草だか知っていません? これですよ、僕にドロシイのことを思い出させるのは……」彼は二三年前の発作のことを思い出しながら言った。
 叔母はそれを手にとって見てちょっと嗅いでいた。
「なんだか薄荷《はっか》みたいな香りがするわね。薄荷草というのじゃないこと?」
「あ、そう、そう、こりぁ薄荷のにおいでしたね……」
 彼が発作を起すときの何となく快よいような気持は、丁度このにおいを嗅いでいるときの気持にそっくりであることに彼はいま始めて気がついたのである。それは彼には一つのすばらしい発見のように思われた。

 まだ八月の半ばを過ぎたばかりなのに、もう秋風らしいものが周囲の木の葉をさわさわ揺すぶっているのを耳にひやりと聞きながら、或る朝、彼が二階のベッドの中でいつまでもぐずぐずしていると、突然戸外でマグネシウムを焚《た》いたような爆音がした。それと同時に家全体がはげしく動揺した。
「浅間山よ……早く来てごらんなさいよ」階下のヴェランダで叔母が叫んでいるらしかった。
 彼は寝間着の上に上着をひっかけてヴェランダへ降りて行った。
「僕はまた写真屋がマグネシウムでも焚いたのかと思った。それにしては朝っぱらから変だと思ったけれど……」
 なるほどヴェランダからは、浅間山がその花キャベツに似た噴煙をむくむくと持ち上げている何とも云えず無気味な光景がはっきりと見えた。その無気味な煙りの中には、ときどき稲妻《いなづま》のようなものが光っていた。その閃光《せんこう》は熔岩《ようがん》と熔岩とがぶつかって発するものだということを、去年の夏、彼は人から聞いていた。
 彼はその凄《すさま》じい噴煙を見上げながら、丁度今の自分と同じようにそれを見上げていた去年の夏のまだいかにも健康そうだった自分の姿をひょっくり思い浮べた。そうしてそれに比較すると、今の自分の方がかえって夢の中にでもいるような気がしてならなかった。……
 もうヴェランダはうすら寒かった。
 彼は客間にはいって行きながら、こんな朝はもう煖炉《だんろ》を使うのも悪くはないなと思った。彼はこの別荘に来た時から、その客間の片隅《かたすみ》に古い熔岩を組み合せてこしらえられてある山家らしい煖炉に目をつけ、それを一度使ってみたいと始終思っていたのである。それで、その朝、とうとう彼は女中に言いつけて松の枝をどっさり持って来させた。そうして自分で煖炉の前にしゃがみ込みながら、それを焚きつけにかかった。
 やっとその小枝に火が燃え移って、ぱちぱちとそれが快活な音を立て出すと、叔母も自分の椅子をその火のそばに近づけた。
「そうしているところは、あなたも随分丈夫そうになってね」叔母が言った
「そうですか。――でも、もうかれこれ一年になるんですからね……ねえ、叔母さん、僕ね、去年二回|喀血《かっけつ》したでしょう。……最初の時は、どういうもんだか気持がよかったくらいでしたよ。そりゃ何しろ生れて始めてなので、びっくりしたことはびっくりしたけれど、もうこのまま死んで行くのだと思ったら、かえって落着いてしまったのでしょうね。……だけど、二度目のときはほんとに厭《いや》だったなあ。――あの時はもう、ひょっとしたら助かるかも知れないという気がしていたもんだから、かえって慌《あわ》ててしまって、僕は無理矢理に咽喉《のど》から上げてくる血を半分ばかり飲み込んでしまったんだからなあ。そのあとの気持の悪いったらなかったし、医老には叱《しか》られるし……僕はあの時くらい人間の生きようとする意志を醜く思ったことはないなあ……」彼は何時《いつ》かひとりごとのように言いつづけていた。が、ふと彼のそばに叔母が何だか煙ったそうな顔をしているのに気づくと、彼は強《し》いて口をつぐんだ。そうして一本のくすぶっている小枝をいじくっていたが、その様子には何処《どこ》か言いたいことがどうしても言えないでそれをもどかしそうにしているようなところがあった。恐らく彼は叔母に向ってこう言いたかったのかも知れない。……
「叔母さん、そんなに僕が生きていればいいと思いますの?」……
 そうして二人はそのまましばらく黙っていた。
 そのうちにさっと何かが木の葉の上に降ってくる音がし出した。それは乾《かわ》いた雨のような音だった。
「浅間の灰かな?……」叔母はそうつぶやくと、そっと立上って窓ぎわへ寄って行った。



底本:「燃ゆる頬・聖家族」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年11月30日発行
   1970(昭和45)年3月30日26刷改版
   1987(昭和62)年10月20日51刷
初出:「改造」
   1931(昭和6)年12月号
初収単行本:「ルウベンスの偽畫」江川書房
   1933(昭和8)年2月1日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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