人の死んだ支那兵《しなへい》が倒れている。子供はその凄惨《せいさん》な光景に思わず目を掩《おお》ってしまう。……
 その子供のおれを、一瞬間うっとりさせていたのと同じような現実の罠《わな》が今のおれを落し入れようとしているのだろうか? おれは何かに瞞《だま》されているのではないか?――そう思いながら彼はなおも魅せられたようにその虚空に回転する虹に見入っていたが、そのうち突然、何処かでガチャリ! と硝子《ガラス》の破れる音がした。と同時にあちらでもこちらでもそれと同じような物音が起った。ずいぶん沢山の硝子が破れたらしいな……と思う間もなく、彼の耳は彼自身のすぐ身ぢかに起ったらしいそれよりも数倍も大きな音響のために麻痺《まひ》したようになった。それは彼の部屋のなかで起ったものらしかったが、彼はそれを確めようともせずに頭からすっぽりと毛布をかぶってしまった。そして彼は枕もとに用意してあるヴェロナアルを飲もうとしたけれど、このまま何も知らずに眠ってしまうことも恐しかった。それからどのくらい時間がたったか分らなかった。――ただその間も彼はたえず自分の眼底に、さまざまの色の微粒子がちらちらしているのをば感じていたが、そのうち不意にエレヴェタアの下降に伴うような感じで彼の全身がすうとしだすのと同時にそれらの幻覚も一時に消えてしまった。それは明らかに眠りではなかった。それはどこかしら脳貧血に似ていた。
 本当の眠りはただその発作を長びかせるような作用をした。
 彼がそういう一種の仮死から蘇《よみがえ》ったのは翌朝の十時頃だった。もう風はすっかり止《や》んでいたし、露台を四五寸埋めている雪からは水蒸気がさかんに立ちのぼっていた。そのせいばかりでなく、その露台の眺望《ちょうぼう》は、いつも彼のベッドの上から見えるのとは非常に様子が異《ちが》っていた。そしてそれが、彼の病室の窓硝子が跡方もなく破壊されているからばかりでなしに、その露台に通じているドアがその蝶番《ちょうつがい》ごとそっくり剥《は》ぎとられてしまっているためであることに彼は漸っと気がついた。硝子の破れる音は彼もうつつに聞いて知っていたが、あんなに巌畳《がんじょう》だったドアがこんなにまで破壊し尽されたことを昨夜少しも知らずにいたことが彼を気味わるがらせた。
 南アルプスの山頂はまた一面に真白になりながら、いつの間にか彼の窓からずっと後へ退《すさ》っていた。それを眺めながら、彼が自分のいま生きていることを確めでもするように、彼のもじゃもじゃになった髪の毛へひょいと手を触れたら、その一本一本が神経そのものであるかのように痛んだ。


 彼は眠ることが出来なくなった。
 どうも夜中になると熱が出てくるらしい。ちょっと眠ったかと思うとすぐ汗みどろになって目がさめた。朝の体温が三十八度位で一日のうちの最高で、それから次第に下って、夕方には最低三十七度位になった。熱の系統が普通とは逆であった。しかもそれがかなり秩序立っていた。夜、眠れないのはどうもそのせいらしかった。
 毎晩、十二時頃になると看護婦たちが彼の病室に見舞いにきた。彼はからかい半分彼女たちのことを「鳩ぽっぽ」と呼んでいた。それは看護婦たちが鳩の歩き方を真似《まね》しているような恰好をして廊下を歩いてくるからだった。そうして看護婦たちは彼の病室のドアをすうっと音のしないように開け、しばらく室内の様子をうかがいながら闇のなかに彼が眠っているらしいのを確めると、またすうっとドアを閉めて、再び鳩のような足どりで廊下を立去った。看護婦たちのなかにはドアも開けずにその鍵孔《かぎあな》から彼の様子を覗いて行くものもあった。そんな時刻にはいつもまだ眠れないでいるところの彼は、そういう看護婦たちの行動を一つ一つ手にとるように知ることが出来た。また、それまでうとうと眠っているような場合でも、きっとそのへんな凝視を彼は神経に感じて目をさましてしまうのが常であった。そういうとき彼はびっしょり汗をかいていた。彼は看護婦たちの立去るのを待ってすばやくタオルの寝間着を裏がえしにした。――だが、そのうちにその深夜の訪問は十二時に限らず行われるようになった。ずっとその時刻の過ぎた夜中の二時か三時になって、まだ眠れずにいる彼はドアがひとりでに開いたり閉じたりするのを見た。誰かが鍵孔からじっと自分の様子をうかがっているのを感じた。しかもそれは一晩のうちに何回となく繰り返された。彼はその度毎《たびごと》にぞっとしながら、いつも眠った真似をしていた。そんな時彼の神経過敏になった耳は、どうかすると夜ふけの廊下に何かの翼の音のするのを聞いたりした。
 しかし彼はその子供らしい恐怖を誰にも訴えなかった。彼はその不眠と熱のためであるらしい幻聴に彼自身を馴《な》らそうとした。そして子供たちが「鳩ぽっぽ」で遊ぶようにそれで遊ぼうとしていた。――だが或る朝、院長は、彼に彼が肋膜炎《ろくまくえん》を再発していることを告げた。そして彼が夜ふけの幻聴のように聞いていた何かの翼の音は彼自身の胸の中から起るものであることを知らされた。
 彼は夜毎に不眠に馴れていった。彼はむしろ夜眠ることを欲しなくなった。眠ることは、彼には、ただ寝汗をかくことであったし、そのあとで高い熱の、きっと出るような悪夢を見ることに過ぎなかったから。だが彼は、不眠のままで、眼をあけたままで見てしまう恐しい夢はどうすることも出来なかった。……そんな或る夜に見たところの一つの夢であった。いつもは開《あ》けておく筈《はず》の窓をどうしてだかその夜は閉めておいたと見える。そとは月夜らしく、その閉じた窓の隙間から差しこんでくる月光が彼のベッドのまわりの床の上に小さい円《まる》い斑点《はんてん》をいくつも描いていたが、それはまるで彼自身がそこへ無神経にしちらした痰《たん》のように見えた。そういう変な光線のなかで、彼はふと彼の枕もとに誰かがうな垂《だ》れているらしいのに気づいた。ああ、Aが来てくれたな……(その瞬間Aがだれか別の人間に変ってしまった)……おお、Bだったのか、すまないな、Aとまちがえて。……おや、君はBでもないね、Cだったのかい……そんな風に、彼の枕もとにうな垂れているのは一人の男きりだったが、その男が誰だかやっと見当がつきそうになると、それはすぐ他の男に変ってしまった。相手の男がいつのまにか他の男に変っているようなことは、どんな夢にもよくあることで、そういう不思議な変化も大概の夢ではきわめて自然に感じられるものである。それが彼のその時の夢ではそう行かなかった。その不思議な変化がどこまでも不思議で、その上それが一種の凄気《せいき》のようなものをさえ感じさせるのだった。……そんな具合に彼が彼の知っていると思われるあらゆる友人たちを代る代る夢に見つくしてしまった時分になって、彼は漸っとその一見何でもないような、それでいてこの頃の彼の夢の中では、最も彼を苦しませたところの夢から自由にされた。熱がひどく出ているらしい。彼はそれを測るために検温器を取ろうとした。だが、その検温器は彼の手から滑《すべ》って床の上で真二つに折れてしまった。その瞬間、いままで窓の隙間から差しこんでくる月影だとばかり思っていたそこら中の沢山の斑点が、突然、彼の目に真赤に映った。そしてそれが本物の痰のように見えた。――おや、おれは何時の間にこんな血を吐いたのかしら?……彼は気味悪そうにそれから目をそらしながら、なんだかこのまま自分が死んで行くのではないかという気がされてならなかった。そうして彼は、今しがた夢フ中で彼を苦しませたところの友人たちが、彼の死を知らせる電報を手にしたまま、さまざまに驚愕《きょうがく》している有様を、一つ一つ病的な好奇心をもって描きはじめていた。……


 彼がその何回目かの彼の「危機」から脱するためには、四週間たっぷりの絶対安静を要した。
 六月に入ってから、或る日のこと、彼ははじめて露台に出ることを許された。彼は其処《そこ》から見えるあらゆる樹木がすっかり若葉を出しているのに眺《なが》め入りながら、目が痒《かゆ》くなるのを我慢していた。それらの樹木の多くが白樺《しらかば》と落葉松《からまつ》であることを知ったのも殆《ほとん》どその時が始めてであった。
 熱は体温表の上で一時非常にジクザクな線を描いたが、そのジクザク[#「ジクザク」に傍点]は次第にその振幅をちぢめて行きながら、遂《つい》に完全に赤線(三十七度)以下になった。だが、彼の身体はまだ何処となく不安定だった。そしてひっきりなしに身体のあちらこちらに、丁度大地震のあとに起る無数の小さな余震のように、或《あるい》は頭痛が、或は神経痛が、或は歯痛が次ぎ次ぎに起った。彼はそれらの余震になおも怯《おびや》かされながら、しかし次第に、露台のまわりでうるさいくらい囀《さえず》りだした小鳥たちの口真似《くちまね》をしてみたり、裏の山から腕いっぱい花を抱《かか》えて帰ってくる看護婦に分けて貰《もら》って薬罎《くすりびん》にさした竜胆《りんどう》や鈴蘭《すずらん》などの小さな花の香《かお》りをかぎながら、彼は生き生きとした呼吸をし出した。
 或る日から彼も日光浴をすることになった。
 彼は看護婦から紫外線|除《よ》けの黒眼鏡を受取ると、それをすぐに掛けながら子供のようにいそいそと露台に出て行った。そして彼は初夏の太陽をまぶしそうに見上げながら、それに向って話しかけでもするように独語するのであった。
「おお、太陽よ、おれも昨日までは苦痛を通して死ばかり見つめていたけれども、今日からはひとつこの黒眼鏡を通してお前ばかり見つめていてやるぞ!」
[#改ページ]

     第二部

[#ここから1字下げ]
 その後御病気御順調の由、何よりも結構です。
 もしお身体にお差障《さしさわ》りないようでしたら当分こちらへ来てみませんか。今年《ことし》は西洋人の別荘を借りています。私一人きりですからどうぞ御遠慮なくお出でください。うちの寝台はぎいぎい鳴りますけれど。庭には沢山あなたの好きな羊歯《しだ》が生《は》えていますよ。(しかしこれはうちのを撮《と》ったのではありません。)
[#ここで字下げ終わり]

 七月の初めに、軽井沢に行っている彼の叔母から、美しく密生した羊歯ばかりを撮影した絵葉書が、まだ療養所にいる彼のところへ届いた。彼はすぐそれに返事を書いた。

[#ここから1字下げ]
 絵ハガキを有難う。
 僕はすぐにでも叔母さんの「羊歯山荘」へ行きたいのですけれど、院長がまだ許してくれません。でもあと一週間位したらと僕は院長と約束をしました。それまで僕はせっせと日光浴でもしていましょう。僕は足ばかり出しているものだから、なんだかマホガニイ製の義足でもしているようになりました。左様なら。
[#ここで字下げ終わり]

 七月も末になった或る朝、その「羊歯山荘」に突然、彼は、西洋人の好んで着るような派手な柄のスウェタアかなんぞ着込んで、妙にはしゃいだ姿をあらわした。手には籐《とう》のステッキを持っているきりで、何処《どこ》か散歩からでも帰ってきたような恰好《かっこう》であった。――雑草が生《お》いかぶさるようになっている小径《こみち》の両側には、とりわけ羊歯が見事に生長していたが、それが彼にはあたかも可愛らしい手をひろげて自分を歓迎している子供たちのように見えるらしく、彼を微笑《ほほえ》ませていた。……
 そこの奥まったヴェランダに、彼の叔母がひとりで籐椅子に凭《よ》りかかっているのを認めると、
「叔母さん……」
 そう彼は人なつこそうに元気のいい声をかけた。
「……そうしているところはまるで羊歯の女王みたいですね」
「そう見えて?……女王なら、私は何の女王でもいいわ」叔母さんは彼ににっこり笑って見せた。
 彼は靴のままヴェランダに上って、そこにある籐椅子の一つにどっかり腰を下した。そうしてすこし荒い呼吸《いき》づかいをしていた。
「お疲れになったでしょう。すぐお寝《やす》みにならない?」
「ええ……
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング