彼の心を曇らせた。
そのバラック小屋の窓からは、古画のなかの聖母の青衣のような色をした、明けがたの湖水が、ほんのりと浮んで見えた。――老人はいつか彼の前に古びた聖書を開いていた。そうして彼のために熱心な祈祷《きとう》をしだした。だが彼はそれには別に耳を貸そうともしないで、ただ不思議そうに、老人の手にしていた聖書の背革《せがわ》が傷《いた》んでいると見えて一面に膏薬《こうやく》のようなものが貼《は》ってあるのや、その老人のぶるぶる顫《ふる》えている手つきが何となく鶏の足に似ているのを眺《なが》めていた。そしてその二つのものは聖書の文句よりも彼の心に触れた。まるで執拗《しつよう》な「生」そのものの象徴ででもあるように。
療養所はS湖から数里離れたところのY岳の麓《ふもと》にあった。
そうしてその麓のなだらかな勾配《こうばい》に沿うて、その赤い屋根をもった大きな建物は互に並行した三つの病棟に分れていた。それにはそれぞれに「白樺《しらかば》」とか「竜胆《りんどう》」とか「石楠花《しゃくなげ》」などと云う名前がついていた。彼の入った「白樺」の病棟はY岳の麓にもっとも近く、そこには他の患
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