人かなんぞのように眼を大きく見ひらいている。……
そのときふと彼は、そういう彼自身の痛ましい後姿を、さっきから片目だけ開けたまんま、じっと睨《にら》みつけている別の彼自身に気がついた。その彼はまだ寝台の中にあって、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけているのであった。
夜の明ける前、彼はS湖で下車した。
其処《そこ》からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乗らなければならなかった。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラック小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家で下男をしていたことのある一人の老人が住んでいた。その老人はもう七十位になっていた。そうしてもう十何年というもの、この湖畔の小屋にまったく一人きりで暮しているのだった。ときどき神経痛のために半身不随になるということを聞いていたが、そんな時は一人でどうするのだろうと、その老衰した様子を見ながら彼は思った。「それにしても、何故こんなにまでなりながら生きていなければならないのかしら?」そういう今の自分にはよく解《わか》らないような疑問がふと
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