また咳が出る。そうしてその咳はなかなか止《や》みそうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまおうと彼は思った。――彼は上衣《うわぎ》に手をとおすために身もだえするような恰好《かっこう》をする。やっとそれを着てしまうと、半年近くも寝間着でばかり生活していた彼には、どうもそれが身体にうまく合わない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿《は》こうとすると、他人のと間違えたのではないかと思う位だぶだぶだ。――そういう動作をしながら、彼はたえず咳をしている。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじっているのに気がつく。どうも彼の真上の寝台の中でするらしい。おれの咳が伝染《うつ》ったのかな。彼は何気なさそうに自分の足もとに揃《そろ》えてある一組の婦人靴を目に入れる。
 彼はやっと立上る。そうしてオキシフルの壜《びん》を手にしたまま、スティムで蒸されている息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄《かばん》につまずいたり、靴をふんづけそうになる。一つの寝台からはスコッチの靴下をした義足らしいのが出ていて彼の邪魔をする。そんなごった返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂
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