って歩いてゆく彼の方がよほど気が気でなかった。そのうち彼はこりゃ俺《おれ》の方がすこしあやしいぞと思い出した。……彼はどうかした機会に、血を見ると、それが自分のであろうと、他人のであろうと、すぐ脳貧血を起してしまう癖があった。そうして今も今、彼はドロシイの白い脛に薔薇色《ばらいろ》の血が滲み出ているのを見ているうちに、どうやらそいつを起したらしいのである。彼はホテルの玄関の次第に近づいてくるのを、うるさく顔にまつわりつく蜘蛛《くも》の巣のようなものを透して、やっとのことで見分けていた。……
「ブランディ! ブランディ!」
一人の西洋人がそう叫んでいるらしいのを彼はすぐ顔の近くに聞いた。それから彼は、自分がホテルの床板の上にあおむけに倒れながら、誰かに自分の足を宙に持ち上げられているらしいことに気がついた。それと同時に甘ったるいような香水のかおりを彼は臭《か》いだ。彼を介抱してくれているのは西洋人の夫婦らしかった。
「ブランディ!」
彼の足を持ち上げていてくれるその西洋人は、漸《ようや》く意識を回復しだした彼の上にかがみながら、ボオイの持ってきたらしい琥珀色《こはくいろ》のグラスを彼
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