にしかならないのか、それすら思い出せない。そうして昨日のことが一昨日のことより昔のように思える。
 叔母のところへは毎日のように彼女と同年輩ぐらいの女の客が訪れてきた。そういう女客ばかりが二三人一しょに落ち合うようなこともあった。「みんな私の学校友達なのよ」叔母はそう言っていたが、いずれ叔母に聞いてみればそれぞれ由緒《ゆいしょ》のある貴夫人たちなのであろうけれど、そういう貴夫人たちというものはどんな会話をするものかしらと、一度二階の彼の寝室からじっと耳を傾けて聞いていると、自分の別荘の裏の胡桃《くるみ》の木に栗鼠《りす》が出たとか、野菜がどうだとか、薪《まき》がどうだとか、そんな話ばかりしているので彼はひとりで苦笑した。
 そういう時には、彼は誰にも見つからないように、二階から降りてこっそりと台所の裏へ出て行った。そこには落葉松が繁茂していて涼しい緑蔭をつくっていた。彼はいつもそこへ籐の寝椅子を持ち出してごろりと横になった。其処《そこ》からはよく伸びた落葉松のおかげで太陽がまるで湖水の底にあるように見えた。どうかすると彼はそこでそのまま眠ってしまうこともあった。
 そんな日のある日、も
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