人の死んだ支那兵《しなへい》が倒れている。子供はその凄惨《せいさん》な光景に思わず目を掩《おお》ってしまう。……
その子供のおれを、一瞬間うっとりさせていたのと同じような現実の罠《わな》が今のおれを落し入れようとしているのだろうか? おれは何かに瞞《だま》されているのではないか?――そう思いながら彼はなおも魅せられたようにその虚空に回転する虹に見入っていたが、そのうち突然、何処かでガチャリ! と硝子《ガラス》の破れる音がした。と同時にあちらでもこちらでもそれと同じような物音が起った。ずいぶん沢山の硝子が破れたらしいな……と思う間もなく、彼の耳は彼自身のすぐ身ぢかに起ったらしいそれよりも数倍も大きな音響のために麻痺《まひ》したようになった。それは彼の部屋のなかで起ったものらしかったが、彼はそれを確めようともせずに頭からすっぽりと毛布をかぶってしまった。そして彼は枕もとに用意してあるヴェロナアルを飲もうとしたけれど、このまま何も知らずに眠ってしまうことも恐しかった。それからどのくらい時間がたったか分らなかった。――ただその間も彼はたえず自分の眼底に、さまざまの色の微粒子がちらちらしている
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