臭いが過酸化水素の臭いだと気づくが早いか、彼は彼の部屋のドアの外側の把手《とって》には、何故だか知らないけれど、ガアゼの繃帯《ほうたい》が巻いてあったことを突然思い出した。そうして彼は、彼が何遍もその前を往復した NO.5 の部屋のドアの把手がその通りであるのを認めた。おれはこのおれの手でさっきそれを握りながら今までこいつに気がつかなかったとは何事だい!(そこで彼は思いきってそのドアを押し開けた。)やっぱりおれの部屋だ。空《から》っぽのおれがおれを待っている。夕方、おれがそこら中に脱ぎ棄《す》てておいた外套《がいとう》や上衣や襯衣《シャツ》や、それから手袋や靴下のようなものまでが、みんなそれぞれにおれの姿を髣髴《ほうふつ》させている。……
 彼はやっとこさ自身のベッドにもぐり込みながら、今しがたの変な錯誤をゆっくりと考え直した。――つまり、病院には NO.4 なんて部屋は始めから無いのだ。4[#「4」に傍点]は不吉にも死[#「死」に傍点]と暗合するから。で、おれの部屋は四番目であるのだけれど、しかも5という番号がつけられている。ただそれきりなのだ。……だが待てよ、その厄介な番号をもった部屋をすっかり持て余してしまったこの病院の建築師は、ひょっとしたら一種の魔法のようなもので、この隣りのおれの部屋にそれをすぽっと嵌《は》めておいたかも知れないぞ。そうしてその二重の部屋(つまりこのおれの部屋だが)、それは夢と現実とをくっつけたように、何処かですこしずつ喰《く》い違いを生じている。そうだ、こんな夜ふけなどあの露台に出てこっそり窓の外からこっちを覗《のぞ》いて見ると、丁度あの重屈折をする方解石のようなものを通して見たかのように、この部屋の中のものがすべて、そしておれ自身までがぼんやり二重になって見えそうな気がする。
 そのとき不意に前夜の寝台車の中のごたごたとした光景が彼に思い出された。いつまでも奇妙な半睡状態を続けている自分の身体からすうっと別の自分自身が抜け出して列車の廊下をうろうろと歩いている――そういう前夜の錯覚と、それから今しがたの変な錯誤とが何時《いつ》しかごっちゃになって、なんだかウイリアム・ブレイクの絵の或る複雑な構図と同じような不可解さをもって彼に迫りながら、ますます彼を眠りがたくさせた。
(二三日後の夜、彼は彼の部屋のドアの把手に人間の手みたいに巻いてあ
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