者もあまり居ないらしく、そしてその裏側はすぐ一面の雑木林になっていた。彼の病室からはベッドに寝たままで、開け放した窓を丁度よい額縁にして、南アルプスのまだ雪に掩《おお》われているロマンチックな山頂が眺《なが》められた。
彼の病室には南向きの露台が一つついていた。其処《そこ》からならばS湖も見えるかも知れないと思って、そこまで出て行った彼はそれらしい方向には一帯の松林をしか見出《みいだ》さなかった。が、その代りに彼は其処から、下の方の病棟のあちらこちらの露台に裸かの患者たちが日光浴をしている有様を一目に見ることが出来た。みんな樹皮のような色の肌《はだ》をしながら、海岸でのように愉《たの》しそうに腹這《はらば》いになっていた。
彼の想像はそういう人達と同じように日光浴をしている裸かの彼自身の姿を描いた。そして「わが骨はことごとく数うるばかりになりぬ」そんな文句を彼はふとつぶやいた。それはかの老人が彼のために読んでくれた聖書の中の一句だった。いちばん何でもないような文句を覚えていたものと見える。「わが骨はことごとくか……」それはいつの間にか話し相手のない彼の口癖になってしまった。
夕方になると、彼はひどい疲労から小石のように眠りに落ちた。
それから何時間たったのか覚えはなかったけれど、彼が目をさまして便所に行ったのは、だいぶ深夜らしかった。彼は便所から帰って、一種の臭《にお》いのただよっている病院の廊下を、同じような病室を NO.1 から一つずつ丁寧に数えて歩いて来ながら、さて彼の病室である四番目のやつのドアを開けようとして、ひょいと部屋の番号を見たら、それは NO.5 だった。彼は部屋の勘定を間違えたのだと思って、すぐ廊下を引き返した。が、ひとつ手前の部屋に来て見るとそれは NO.3 になっていた。おれは何と寝呆《ねぼ》けているのだろう。自分の部屋の前を何遍も素通りする。そう思ってまた踵《きびす》を返した。が次の部屋まで来て見るとやっぱりさっきの NO.5 であった。まさかお伽噺《とぎばなし》じゃあるまいし、おれが夜中に起きて便所へ行っている間におれの部屋が何処《どこ》かへ消えて無くなってしまっているなんて!……そうは思ったものの、彼はしばらくの間、電燈ばかりこうこうと燿《かがや》いている深夜の廊下のまん中に愚かそうに立ちすくんでいたが、ふと其処にただよっている
前へ
次へ
全18ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング