人かなんぞのように眼を大きく見ひらいている。……
 そのときふと彼は、そういう彼自身の痛ましい後姿を、さっきから片目だけ開けたまんま、じっと睨《にら》みつけている別の彼自身に気がついた。その彼はまだ寝台の中にあって、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけているのであった。


 夜の明ける前、彼はS湖で下車した。
 其処《そこ》からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乗らなければならなかった。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラック小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家で下男をしていたことのある一人の老人が住んでいた。その老人はもう七十位になっていた。そうしてもう十何年というもの、この湖畔の小屋にまったく一人きりで暮しているのだった。ときどき神経痛のために半身不随になるということを聞いていたが、そんな時は一人でどうするのだろうと、その老衰した様子を見ながら彼は思った。「それにしても、何故こんなにまでなりながら生きていなければならないのかしら?」そういう今の自分にはよく解《わか》らないような疑問がふと彼の心を曇らせた。
 そのバラック小屋の窓からは、古画のなかの聖母の青衣のような色をした、明けがたの湖水が、ほんのりと浮んで見えた。――老人はいつか彼の前に古びた聖書を開いていた。そうして彼のために熱心な祈祷《きとう》をしだした。だが彼はそれには別に耳を貸そうともしないで、ただ不思議そうに、老人の手にしていた聖書の背革《せがわ》が傷《いた》んでいると見えて一面に膏薬《こうやく》のようなものが貼《は》ってあるのや、その老人のぶるぶる顫《ふる》えている手つきが何となく鶏の足に似ているのを眺《なが》めていた。そしてその二つのものは聖書の文句よりも彼の心に触れた。まるで執拗《しつよう》な「生」そのものの象徴ででもあるように。


 療養所はS湖から数里離れたところのY岳の麓《ふもと》にあった。
 そうしてその麓のなだらかな勾配《こうばい》に沿うて、その赤い屋根をもった大きな建物は互に並行した三つの病棟に分れていた。それにはそれぞれに「白樺《しらかば》」とか「竜胆《りんどう》」とか「石楠花《しゃくなげ》」などと云う名前がついていた。彼の入った「白樺」の病棟はY岳の麓にもっとも近く、そこには他の患
前へ 次へ
全18ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング