恢復期
堀辰雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)枕《まくら》もと
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼|等《ら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)4[#「4」に傍点]
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第一部
彼はすやすやと眠っているように見えた。――それは夜ふけの寝台車のなかであった。……
突然、そういう彼が片目だけを無気味に開《あ》けた。
そうして自分の枕《まくら》もとの懐中時計を取ろうとして、しきりにその手を動かしている。しかしその手は鉄のように重いのだ。まだその片目を除いた他の器官には数時間前に飲んだ眠り薬が作用しているらしいのである。そこで彼はあきらめたようにその片目を閉じてしまう。
が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さっきの命令がやっといまそれに達したかのように。そうしてそれがひとりで枕もとの懐中時計を手捜《てさぐ》りしている。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけていたさっきの命令を彼に思い出させる。
「まだ三時半だな……」
彼はそうつぶやくと、一つ咳《せき》をする。するとまた咳が出る。そうしてその咳はなかなか止《や》みそうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまおうと彼は思った。――彼は上衣《うわぎ》に手をとおすために身もだえするような恰好《かっこう》をする。やっとそれを着てしまうと、半年近くも寝間着でばかり生活していた彼には、どうもそれが身体にうまく合わない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿《は》こうとすると、他人のと間違えたのではないかと思う位だぶだぶだ。――そういう動作をしながら、彼はたえず咳をしている。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじっているのに気がつく。どうも彼の真上の寝台の中でするらしい。おれの咳が伝染《うつ》ったのかな。彼は何気なさそうに自分の足もとに揃《そろ》えてある一組の婦人靴を目に入れる。
彼はやっと立上る。そうしてオキシフルの壜《びん》を手にしたまま、スティムで蒸されている息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄《かばん》につまずいたり、靴をふんづけそうになる。一つの寝台からはスコッチの靴下をした義足らしいのが出ていて彼の邪魔をする。そんなごった返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂
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