いたそこら中の沢山の斑点が、突然、彼の目に真赤に映った。そしてそれが本物の痰のように見えた。――おや、おれは何時の間にこんな血を吐いたのかしら?……彼は気味悪そうにそれから目をそらしながら、なんだかこのまま自分が死んで行くのではないかという気がされてならなかった。そうして彼は、今しがた夢フ中で彼を苦しませたところの友人たちが、彼の死を知らせる電報を手にしたまま、さまざまに驚愕《きょうがく》している有様を、一つ一つ病的な好奇心をもって描きはじめていた。……
彼がその何回目かの彼の「危機」から脱するためには、四週間たっぷりの絶対安静を要した。
六月に入ってから、或る日のこと、彼ははじめて露台に出ることを許された。彼は其処《そこ》から見えるあらゆる樹木がすっかり若葉を出しているのに眺《なが》め入りながら、目が痒《かゆ》くなるのを我慢していた。それらの樹木の多くが白樺《しらかば》と落葉松《からまつ》であることを知ったのも殆《ほとん》どその時が始めてであった。
熱は体温表の上で一時非常にジクザクな線を描いたが、そのジクザク[#「ジクザク」に傍点]は次第にその振幅をちぢめて行きながら、遂《つい》に完全に赤線(三十七度)以下になった。だが、彼の身体はまだ何処となく不安定だった。そしてひっきりなしに身体のあちらこちらに、丁度大地震のあとに起る無数の小さな余震のように、或《あるい》は頭痛が、或は神経痛が、或は歯痛が次ぎ次ぎに起った。彼はそれらの余震になおも怯《おびや》かされながら、しかし次第に、露台のまわりでうるさいくらい囀《さえず》りだした小鳥たちの口真似《くちまね》をしてみたり、裏の山から腕いっぱい花を抱《かか》えて帰ってくる看護婦に分けて貰《もら》って薬罎《くすりびん》にさした竜胆《りんどう》や鈴蘭《すずらん》などの小さな花の香《かお》りをかぎながら、彼は生き生きとした呼吸をし出した。
或る日から彼も日光浴をすることになった。
彼は看護婦から紫外線|除《よ》けの黒眼鏡を受取ると、それをすぐに掛けながら子供のようにいそいそと露台に出て行った。そして彼は初夏の太陽をまぶしそうに見上げながら、それに向って話しかけでもするように独語するのであった。
「おお、太陽よ、おれも昨日までは苦痛を通して死ばかり見つめていたけれども、今日からはひとつこの黒眼鏡を通してお前ばかり見つめ
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