たちが「鳩ぽっぽ」で遊ぶようにそれで遊ぼうとしていた。――だが或る朝、院長は、彼に彼が肋膜炎《ろくまくえん》を再発していることを告げた。そして彼が夜ふけの幻聴のように聞いていた何かの翼の音は彼自身の胸の中から起るものであることを知らされた。
 彼は夜毎に不眠に馴れていった。彼はむしろ夜眠ることを欲しなくなった。眠ることは、彼には、ただ寝汗をかくことであったし、そのあとで高い熱の、きっと出るような悪夢を見ることに過ぎなかったから。だが彼は、不眠のままで、眼をあけたままで見てしまう恐しい夢はどうすることも出来なかった。……そんな或る夜に見たところの一つの夢であった。いつもは開《あ》けておく筈《はず》の窓をどうしてだかその夜は閉めておいたと見える。そとは月夜らしく、その閉じた窓の隙間から差しこんでくる月光が彼のベッドのまわりの床の上に小さい円《まる》い斑点《はんてん》をいくつも描いていたが、それはまるで彼自身がそこへ無神経にしちらした痰《たん》のように見えた。そういう変な光線のなかで、彼はふと彼の枕もとに誰かがうな垂《だ》れているらしいのに気づいた。ああ、Aが来てくれたな……(その瞬間Aがだれか別の人間に変ってしまった)……おお、Bだったのか、すまないな、Aとまちがえて。……おや、君はBでもないね、Cだったのかい……そんな風に、彼の枕もとにうな垂れているのは一人の男きりだったが、その男が誰だかやっと見当がつきそうになると、それはすぐ他の男に変ってしまった。相手の男がいつのまにか他の男に変っているようなことは、どんな夢にもよくあることで、そういう不思議な変化も大概の夢ではきわめて自然に感じられるものである。それが彼のその時の夢ではそう行かなかった。その不思議な変化がどこまでも不思議で、その上それが一種の凄気《せいき》のようなものをさえ感じさせるのだった。……そんな具合に彼が彼の知っていると思われるあらゆる友人たちを代る代る夢に見つくしてしまった時分になって、彼は漸っとその一見何でもないような、それでいてこの頃の彼の夢の中では、最も彼を苦しませたところの夢から自由にされた。熱がひどく出ているらしい。彼はそれを測るために検温器を取ろうとした。だが、その検温器は彼の手から滑《すべ》って床の上で真二つに折れてしまった。その瞬間、いままで窓の隙間から差しこんでくる月影だとばかり思って
前へ 次へ
全18ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング