らずっと後へ退《すさ》っていた。それを眺めながら、彼が自分のいま生きていることを確めでもするように、彼のもじゃもじゃになった髪の毛へひょいと手を触れたら、その一本一本が神経そのものであるかのように痛んだ。
彼は眠ることが出来なくなった。
どうも夜中になると熱が出てくるらしい。ちょっと眠ったかと思うとすぐ汗みどろになって目がさめた。朝の体温が三十八度位で一日のうちの最高で、それから次第に下って、夕方には最低三十七度位になった。熱の系統が普通とは逆であった。しかもそれがかなり秩序立っていた。夜、眠れないのはどうもそのせいらしかった。
毎晩、十二時頃になると看護婦たちが彼の病室に見舞いにきた。彼はからかい半分彼女たちのことを「鳩ぽっぽ」と呼んでいた。それは看護婦たちが鳩の歩き方を真似《まね》しているような恰好をして廊下を歩いてくるからだった。そうして看護婦たちは彼の病室のドアをすうっと音のしないように開け、しばらく室内の様子をうかがいながら闇のなかに彼が眠っているらしいのを確めると、またすうっとドアを閉めて、再び鳩のような足どりで廊下を立去った。看護婦たちのなかにはドアも開けずにその鍵孔《かぎあな》から彼の様子を覗いて行くものもあった。そんな時刻にはいつもまだ眠れないでいるところの彼は、そういう看護婦たちの行動を一つ一つ手にとるように知ることが出来た。また、それまでうとうと眠っているような場合でも、きっとそのへんな凝視を彼は神経に感じて目をさましてしまうのが常であった。そういうとき彼はびっしょり汗をかいていた。彼は看護婦たちの立去るのを待ってすばやくタオルの寝間着を裏がえしにした。――だが、そのうちにその深夜の訪問は十二時に限らず行われるようになった。ずっとその時刻の過ぎた夜中の二時か三時になって、まだ眠れずにいる彼はドアがひとりでに開いたり閉じたりするのを見た。誰かが鍵孔からじっと自分の様子をうかがっているのを感じた。しかもそれは一晩のうちに何回となく繰り返された。彼はその度毎《たびごと》にぞっとしながら、いつも眠った真似をしていた。そんな時彼の神経過敏になった耳は、どうかすると夜ふけの廊下に何かの翼の音のするのを聞いたりした。
しかし彼はその子供らしい恐怖を誰にも訴えなかった。彼はその不眠と熱のためであるらしい幻聴に彼自身を馴《な》らそうとした。そして子供
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