は同意しがたいものがある。やはりジィドやリヴィエェルのやうに、プルウストには事物がひとりでにさういふ風に――あたかも分析したかのやうに――見えたのだと解した方がよくはないだらうか?
 ――リヴィエェルと云へば、彼のプルウストに關する講演のことを書く書くと云ひながら、いまだに約を果さずにゐるが、この次にはきつと書くつもりだ。

          三

[#地から2字上げ]七月十三日
 この二三日、僕は君に約束をしたジャック・リヴィエェルのプルウストに關する講演を、なにしろ長いものなので、どうしたら一番要領よくその主要なところを話せるだらうかと考へて見たんだが、どうも名案が浮ばない。しやうがないから、僕はいつか引用した例の「彼の宿命のごとく思はれる受動的《パッシイフ》なるものを能動的《アクティフ》なるものに換へんとする努力」といふリヴィエェルの言葉を中心にして、特に興味深い數節を次に抄してお目にかけよう。
 ――以下はそのリヴィエェルの講演原稿の大意である。
        ―――――――――――――――
 先づ諸君に、この世にひどく不釣合な、その挑戰に應ずることの絶對に出來ない、ある男の觀念を與へなければならぬ。彼の性格のさういふ外貌のすべては、私には次のアネクドオトの中に要約されてゐるやうに見える。――ある夜、私は彼と一しよに眞夜中近く彼のアパアトメントを出た(それは彼が友人を訪問する時間だつた)。彼の家政婦で女中で、そして祕書であるセレストが私達についてきた。階段はペンキが塗り立てだつた。プルウストはいきなりそのペンキに手を突いて、その手袋にぺつたりそれを着けてしまつた。すると彼はすぐセレストに向つて優しい、くどくどした叱言を云ひ出した。それを彼女は豫防すべきだつたとか、階段の塗りかへられてあるのを彼女はよく知つてゐた筈なのにとか……。彼はセレストの衝立だけがそのペンキから彼を保護しただらうことを何處までも信じ切つてゐるかのやうだつた。彼は、彼自身の力では[#「彼自身の力では」に傍点]、物事に働きかけることは愚か、それを防禦することさへ出來ないと思つてゐるらしかつた。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 彼の作品に何等の先入主なしに近づく誰でもを打つにちがひない最初の特色は、實にその密度[#「密度」に傍点]であらう。諸君はいま笑はれた。何故なら、まだ三頁も讀まないうちに、多くの讀者を中止させ、退屈だと叫ばしむるものがその密度だからである。
 しかし私は、プルウストの作品の最も重要な特色を除いては、これをもつてその主要なものとなすに躊躇しない。その密度とは一體どんな性質のものかと云ふと、――それを生じさせてゐるものは、頁の各糎平方の中に夥しい量で塊まり合つてゐる感覺、印象及び感動なのである。恐らく現實がかくも纖細な、かくも精密な方法で透現されたことは未だ曾つてあるまい。
 まあ、コンブレエのこの一節を聞きたまへ。

[#ここから1字下げ]
 空氣(レオニイ叔母さんの部屋の)は、大へん滋養分のある、味のよい、沈默の精のやうなもので飽和されてゐたものだから、私はそこへは一種の強烈な食慾をもつて近づいて行つた。ことに復活祭の休みの初めのまだ寒い朝々は、私がコンブレエに着いたばかりといふせゐもあつて、私はそれを、一層よく味つたのである。私は私の叔母さんにお早うを云ひにその部屋へ這入る前に、私はちよつと次の部屋で待たされるのであつたが、そこにはすでに二個の煉瓦の間に火が熾されてゐ、その火の前にはまだ冬らしい日射しが温まりに這ひよつてゐた。そしてそのため部屋中に煤煙のにほひがこびりついてゐた。まるで、田舍によくある大きな竈口とか、古い館の煖爐の枠などのやうに。(さう云つたものの下では、人々は冬籠りの面白さを増さすために、戸外に、雪でも、雨でも、はたまた大洪水のやうな災害でもいいから起ることを願ふものだが……)私は祈祷臺と、いつもホックでカバアをとめた、凹んだ天鵞絨の肱かけ椅子との間を行つたり來たりしてゐた。その間、火はあの食慾をそそるやうな香り(それでもつて部屋の空氣はすつかり凝固してゐたが、やうやく朝のしつとりした、活氣のある新鮮さがそれを搖り動かし、「立ち昇らせ」てゐた)をパイのやうに燒きながら、それらの香りを薄く剥ぎ、金色にし、皺をよらせ、ふくらませてゐた。目には見えないが手で觸れられなくもない田舍菓子、あの大きな饅頭のやうなものにそれを仕上げながら。そんななかで、私は戸棚だの、箪笥だの、壁紙だのの、もつとしやりしやりした、もつと微妙な、もつと好評な、しかしもつともつと乾燥した匂ひを嗅ぐや否や、私はいつも人知れぬ烈しい欲望をもつて、あの花模樣のある寢臺掛の、何とも云ひやうのなく汚れた、にぶい、不消化な、果實のやうな匂ひの中に、再び身を埋めてゆくのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字1、1−13−21]

 私が諸君に讀まうと思つてゐるもう一つの一節は、プルウストが數秒間のことを描寫しながら僅か半頁足らずの中に收めることの出來た、感覺のみならず、感情の量をも諸君に感得せしめるだらう。それはオデットがとうとう打負かされてスワンの腕の中に身を投ずる瞬間だ。

[#ここから1字下げ]
 彼は彼のもう一方の手をオデットの頬にそうて上げた。彼女は彼を見つめた。あのフロレンス派の巨匠の描いた女たち(それに彼女がよく肖てゐると彼の思つてゐた)の持つてゐるやうな、物憂げな、重々しい樣子をして。そして彼女の輝かしい、大きい、しなやかな瞳は、その眼瞼《まぶた》の線にひつついて、まるで二粒の涙のやうに彼女の頬から落ちさうだつた。彼女は少し彼女の頸をかしげてゐた。あの基督教的であると同時に異教的な繪のなかですべての女たちがしてゐるやうに。そしてさういふ姿勢は、もともと彼女には習慣的のものではあつたし、それにまたかういふ瞬間にはそれが持つてこいであるのをよく知つてゐて、さうすることを忘れぬやうに心がけてゐたのであつたが、さういふ姿勢のままで彼女は自分の顏をスワンから離すために全力を出してゐるやうに見えた。あたかもそれが何かの見えない力によつてスワンの方へ引き寄せられてでもゐるかのやうに。そしてさういふ努力もとうとう空しかつたかのやうに彼女がその顏をスワンの脣の上に落してしまはないうちに、それを少し離して、一瞬間、兩手で支へてゐたのはかへつてスワンの方であつた。それは彼が、丁度、自分の非常に可愛がつてゐる息子の授賞式に與るべく招ばれてゐる兩親のやうに、そこに駈けつけ、あんなにも長い間あこがれてゐたその夢の實現を目のあたりに見ようとする瞬間を、出來るだけ自分の心に取つて置きたかつたからだ。恐らくまたスワンは、まだ自分のものにしてゐない、まだ接吻をしてゐない、そしてさういふものとしてはもう見納めになるであらう、このオデットの顏の上に、丁度その出發の日に、永久に立ち去らうとする風景を記憶して置かうとする、あの旅人のやうな眼ざしを注いでゐたのにちがひない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字2、1−13−22]

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 かかる厚さ(彼の本の)は、防禦力を完全に取上げられた精神的組織に依つて、或はそれを媒介としてのみ、生じ得るところの奇蹟だ。プルウストが人生からかくも驚くべき綿密さをもつて印象を受け取つたのは、彼が決して人生と爭はうとはしなかつたからだ。彼がこれだけ多くのものを得たのは、彼が最初何物をも欲しなかつたからだ。
 さう、私がさつき語つた階段の降り方は、私にはますます象徴的に見えてくる。ペンキが彼の手袋にくつつくのは當然だつたのだ。そして第三者のみが、その間に入つて彼を保護し、彼の上への外界の粘着を禁じ得たのだ。
 若しもプルウストの作品の重要性と獨創牲とが解したいならば、先づそれが何物をも避け得ない者の作品であることを考へよ。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 しかし、我々はプルウストの性格の中に、彼の根元的な消極性及び印象過敏性の一方に積極的な性質を認めると共に、我々はそこに彼の作品の第二の相、彼の方法の別の獨創牲の現はれるのを見逃してはならない。
 手袋の上のペンキの汚點《しみ》がある。しかし、一方にはまた、プルウストの強情、要求しそしてそれを手に入れるための彼の手腕、彼の貪慾、「彼の宿命のごとく思はれる受動的なるものを何か能動的なるものに變へんとする」努力、外貌に對する不信任、最初差し出されたものよりもつと堅固なる何物かを捉まへんとする欲求、眞理への熱情、があるのである。
 コンブレエの一節を聞きたまへ。プルウストが感動に直面して本能的にとつた態度、いかなる眞に哲學的な欲求によつて彼の驚くべき享受性が展開するか、諸君に理解させたい。

[#ここから1字下げ]
 ……突然、一つの屋根、一つの石の上の太陽の反射、一つの小徑の香りが、私を立ち止らせるのであつた。それらのものが私に與へてくれる或る特別な快さを樂しむために。それからまた、それらのものが私の眼に見えてゐるものの彼方に何物かを隱してゐるやうな風をしてゐて(私にはいかに努力をしてもそれが發見できなかつたが)それを取りに來るやうにと私を誘ふので。そして私はそれらのものの中に確かに何物かがあるやうに感じたので、私はそこにぢつと立止まつてゐた、動かずに、見つめつつ、呼吸しつつ、そして形象《イマアジュ》や匂の彼方に私の思考と共に行かうとしながら。そしてもしも私のお租父さんに追ひつき、どんどん道を進んで行かなければならないやうな場合には、私は目をつぶりながら、それらのものを再び見出さうと努力した。私は屋根の線、石の色合ひを正確に思ひ浮べようとして一所懸命になつた。そして何故だか分らなかつたが、私にはそれらのものが今にも充ち溢れさうでもう半分開きかかつてゐ、そしてそれらのものがその覆ひになつてゐるところの、その中身をば將に私に手渡ししようとしてゐるかのごとく思はれるのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字1、1−13−21]

 かくのごとく子供の頃から、プルウストは自分の中に世界を非常に蠱惑的なるものとして受け入れると同時に、彼はそのものを理解すべく、そのものからそのもの以上の何物かを引き出すべく、「形象《イマアジュ》の覆ひの下に」隱されてゐる現實(物質的なものであるか觀念的なものであるか彼は知らぬが)を發見すべく彼を駈りやるところの――彼自身の言葉を借りれば――「困難な心の義務」を感じたのだ。
 レイナルド・アァンは「プルウスト追悼號」の中で、實際においても彼がいかにその義務に忠實であつたかを示すところの、非常に意味深いアネクドオトを語つてゐる。

[#ここから1字下げ]
 私の到着した日、私達は庭園に散歩に待つた。私達はベンガルの薔薇の木の柵の前を通つた。そのとき彼は突然立止つた。私も足をとめた。がすぐ彼は歩き出した。私もさうした。すると彼はまた立止つた。そして私に、いつもの子供らしいすこし悲しさうな、やさしい調子で言つた。「僕だけもうすこし此處に居ても構はないでせうか? 僕はもう一度あの小さな薔薇の木が見たいのです。」私は彼から離れた。小徑の曲り角で、私は振返つて見た。マルセルは薔薇の木のところまで引返してゐた。館を一周して歸つてきた私は、さつきと同じところに彼がぢつと薔薇を見つめながら立つてゐるのを發見した。すこし首をかしげ、眞面目さうな顏つきをして、彼は目をまたたいてゐた。いかにも熱心に注意してゐるらしく眉を輕くひそめながら。そして彼の左手で熱心に、彼の小さな黒い口髭の端を自分の脣の間にはさんでは、それを噛んでゐた。私は、彼が私の足音を聞いて私の方を見たやうに思つたが、彼は私に話しかけようともせず、身動きさへもしなかつた。私
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