ポオにしろ、又、コクトオのやうなものまでが、最後にはカトリックになるね。あの氣持だな、あれがちよつと解るやうな解らないやうな氣がするのだ。恐らく誰に訊いてもはつきりとは答へられまい。ちやうど東洋の詩人が最後にはすべて虚無のやうなものに還つてゆく、ああいつた氣持にそれが何處か似てゐるやうでゐて、まるで正反對なのではないかと思ふ。たとへば、モオリアックだな、その「テレェズ・デケルウ」と云ふのは、夫を毒殺しようとして未遂に終る女のことを書いてゐるのだ。さういふ恐ろしい女主人公を、モオリアックは少しも憎まうとしてゐない。それどころか非常に優しい愛情でもつて包んでやつてゐる、自分の慘めなことを知つてゐるこの女が好きで好きでたまらないやうなところが僕等にも感ぜられる、そしてさういつたものがこの小説の調子をリリカルなものにさへしてゐる位だ。が、それに引きかへ、彼女の周圍の者は、ことにその俗人ではあるが善良な夫などは徹底的に冷酷に取り扱はれてゐる。むしろ戲畫化さへされてゐる。――恐らくモオリアックの愛してゐるのは、テレェズの痛々しいまでな不安なのであらうし、はげしく憎んでゐるのは、夫やその他の人々の世
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