るものぢやない。
A ラジィゲの「舞踏會」はさう云つたところがあるんぢやない? 僕などはあの女主人公の心理にぐんぐん引つぱられて行つたものだがなあ。
B さうだ、あれも大したものだつた。誰かが云つてゐたが、「この女は自分ではかうなのだと信じてゐる……が、實際はかうなんだ……」なんて云つた調子で、知らず識らずに自分の感情を間違へてしまつてゐる、それほど豐富で複雜な感情をもつた人々が實に微妙に描き分けられてゐたが、いま考へると、あの小説の唯一の缺點は、あまりにラジィゲが自分の作中人物を支配しすぎてゐたことだ。モオリアックを讀んだあとなどではそれが特に目立つ。モオリアックはむしろ反對に自分がその作中人物に支配されることを好む。いつのまにか作中人物が彼等の裡にある運命曲線を一人でずんずん辿り出す。作家はただそれについて行くだけになる。作中人物が生々としてくればくるほど、ますます彼等は作家の云ふことをきかなくなるものだ。しまひには作家をまるで思ひがけないやうなところまで引つぱつて行つてしまふ。それは作家にとつては大成功だ。――だが、モオリアックなどには、カトリックとしての立場から、それがまた隨分
前へ 次へ
全15ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング