すると彼は急に変な気持になりだした。彼はすべてのものを水の中でのように空気の中で感ずるのである。たいへん歩きにくい。おもわず魚のようなものをふんづける。彼の貝殻の耳をかすめてゆく小さい魚もいる。自転車のようなものもある。また犬が吠《ほ》えたり、鶏が鳴いたりするのが、はるかな水の表面からのように聞えてくる。そして木の葉がふれあっているのか、水が舐《な》めあっているのか、そういうかすかな音がたえず頭の上でしている。
 彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思う。が、そう思うだけで、彼は自分の口がコルクで栓《せん》をされているように感ずる。だんだん頭の上でざわざわいう音が激しくなる。ふと彼はむこうに見おぼえのある紅殻色のバンガロオを見る。
 そのバンガロオのまわりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく……
 それを見ると急に彼の意識がはっきりした。彼は彼女のあとからすぐ彼女の家を訪問するのは、すこし工合が悪いと思った。しかたなしに彼はその小径を往《い》ったり来たりしていた。いいことに人はひとりも通らなかった。そうして漸《ようや》く「巨人の椅子」の麓《ふもと》の方から近づいてくる人の
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