ころだった。彼を見ると夫人は急に思い出したように彼女に言った。
「あの乳母車《うばぐるま》にのっている写真をお見せしないこと?」
彼女は笑いながらその写真を取りに次の部屋にはいっていった。その間、彼の眼のうちらには、彼女の幼時の写真の古い茸《きのこ》のような色がひとりでに溜《たま》ってくるようだった。次の部屋から再び帰ってきた彼女は彼に二枚の写真を渡した。が、それは二枚とも彼の眼をまごつかせたくらいに撮影したばかりの新鮮な写真だった。それはこの夏この別荘の庭で、彼女が籐椅子《とういす》に腰かけているところを撮《と》らせたものらしかった。
「どっちがよく撮れて?」彼女が訊《き》いた。
彼は少しどきまぎしながら、近視のように眼を細くしてその二つの写真を見較《みくら》べた。彼は何とはなしにその一つの方を指《さ》してしまった。そのとき彼の指の先がそっとその写真の頬《ほお》に触れた。彼は薔薇《ばら》の花弁に触れたように思った。
すると夫人はもう一つの方の写真を取りあげながら言った。
「でも、この方がこの人には似ていなくて?」
そう言われてみると、彼にもその方が現実の彼女によりよく似ている
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