「ときに君の絵はどうしたい?」
「僕の絵? あれはあのままだ」
「惜しいじゃないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はっきり見えてしまうんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね……」
 彼はスウプを匙《さじ》ですくいながら、思わずその手を休めて、自分自身のことを考えた。ことによると、自分と彼女との関係がちっとも思うように進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない。彼はそれを信じようとさえした。
 そして彼は考えた。描きかけの風景画をたずさえてこれから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであろう自分の「ルウベンスの偽画」をたずさえて再びここを立ち去るより他《ほか》はないであろうか?

 午後になって、その友人を町はずれまで見送ってから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
 丁度ふたりでお茶を飲んでいると
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