あがりつつある彼を見上げながら、友人は言った。
「まあ、いいじゃないか。僕は今日《きょう》東京へ帰るんだよ」
「今日帰る? だって、まだその絵、出来てないんじゃないの?」
「出来てないよ。だが僕はもう帰らなければならないんだ」
「どうしてさ」
友人はそれに答えるかわりに再び自分の絵の上に眼を落した。しばらくその一部分に彼の眼は強く吸いつけられているかのようであった。
※[#アステリズム、1−12−94]
彼はひとり先きにホテルに帰って、昼食を共にしようと約束をしたさっきの友人の来るのを客間で待っていた。
彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵《ひまわり》の花をぼんやり眺《なが》めていた。それは西洋人よりも脊高く伸びていた。
ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒《シャンパン》を抜くようなラケットの音が愉快そうに聞えてくるのである。
彼は突然立上った。そして窓ぎわの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかったので、彼はそこに備え付けの大きな吸取紙の上に不恰好《ぶかっこう》な字をいくつもにじませ
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