を呼ばれたような気がした。あたりを見廻してみたが、それらしいものは見えなかった。おかしいなと思っていると、また彼の名前を呼ぶものがあった。今度はややはっきり聞えたのでその声のした方を振り向いてみると、そこには彼のいる小径から三尺ばかり高まった草叢《くさむら》があり、その向うに一人の男がカンバスに向っているのが見えるのだ。その男の顔を見ると彼は一人の友人を思い出した。
彼はやっとこさその上に這《は》い上って、その友人のそばへ近よって行った。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向っていた。彼も話しかけない方がいいのだろうと思った。そうしてそこへ腰を下ろしたまま黙ってその描きかけの絵を見まもっていた。彼はときどきその絵のモチイフになっている風景をそのあたりに捜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても捜しあてることが出来なかった。なにしろその画布の上には、唯《ただ》、さまざまな色をした魚のようなものや小鳥のようなものや花のようなものが入り混っているだけだったから。
しばらくその奇妙な絵に見入っていたが、やがて彼はそっと立ちあがった。すると立ち
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