いる彼の頭上では、一匹の鸚鵡《おうむ》が人間の声を真似していた。
しかし彼はその鸚鵡の言葉を聴《き》こうとはしなかった。彼は熱心に彼の「ルウベンスの偽画」を虚空に描いていた。それが何時《いつ》になく生き生きした色彩を帯びているのが彼には快かった。……
その瞬間、彼は彼のところからは木の枝に遮《さえ》ぎられて見えない小径の上を二台の自転車が走って来て、そのロッジの前に停まるのを聞いた。それからまだその姿は見えないけれど、若い娘特有の透明な声が聞えてきた。
「なんか飲んで行かない?」
その声を聞くと彼はびっくりした。
「またかい。これで三度目だぜ」そう若い男の声が応じた。
彼は何となく不安そうにロッジの中にはいってくる二人を見つめた。意外にもそれはきのうのお嬢さんだった。それから彼のはじめて見る上品な顔つきをした青年だった。
その青年は彼をちらりと見て、彼から一番離れたテエブルに坐ろうとした。するとお嬢さんが言った。
「鸚鵡のそばの方がいいわ」
そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐った。
お嬢さんは彼に脊なかを向けて坐ったが、彼には何だかわざとかの女がそうしたように思われた。鸚鵡は一そう喧《やか》ましく人真似《ひとまね》をしだした。かの女はときどきその鸚鵡を見るために脊なかを動かした。その度毎《たびごと》に彼はかの女の脊なかから彼の眼をそらした。
お嬢さんはその青年と鸚鵡とをかわるがわる相手にしながら絶えず喋舌《しゃべ》っていた。その声はどうかすると「ルウベンスの偽画」の声にそっくりになった。さっきこのお嬢さんの声を聞いて彼がびっくりしたのはそのせいであったのだ。
お嬢さんの相手の青年はその顔つきばかりではなしに、全体の上品な様子が去年の混血児たちとはすこぶる異《ちが》っていた。すべてがいかにもおっとりとして貴族的であった。そういう両者の対照の中に彼は何となくツルゲエネフの小説めいたものさえ感じたほどだった。この頃になってこのお嬢さんはやっとかの女の境涯を自覚しだしたのかも知れない。……そんなことをいい気になって空想していると、彼は彼自身までがうっかりその小説の中に引きずり込まれて行きそうで不安になった。
彼はもっとここに居てみようか、それとも出て行ってしまおうかと暫《しばら》く躊躇《ちゅうちょ》していた。鸚鵡は相変らず人間の声を真似していた。それ
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