をいくら聴いていても、彼にはその言葉がすこしも分らなかった。それが彼にはなんだか彼の心の中の混雑を暗示するように思われた。
 彼はいきなり立ちあがると不器用な歩き方でロッジを出て行った。
 ロッジのそとへ出ると、二台の自転車がそのハンドルとハンドルとを、腕と腕とのようにからみあわせながら、奇妙な恰好《かっこう》で、そこの草の上に倒れているのを彼は見た。
 そのとき彼の背後からお嬢さんの高らかな笑い声が聞えてきた。
 彼はそれを聞きながら、自分の体の中にいきなり悪い音楽のようなものが湧《わ》き上ってくるのを感じた。
 悪い音楽。たしかにそうだ。彼を受持っているすこし頭の悪い天使がときどき調子はずれのギタルを弾《ひ》きだすのにちがいない。
 彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口していた。彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。
 或る晩のことであった。
 彼は彼女の家から彼のホテルへのまっ暗な小径《こみち》を、なんだか得体の知れない空虚な気持を持てあましながら帰りつつあった。
 その時前方の暗やみの中から一組の若い西洋人達が近づいてくるのを彼は認めた。
 男の方は懐中電気でもって足もとを照らしていた。そしてときどきその電気のひかりを女の顔の上にあてた。するとそのきらきら光る小さな円の中に若い女の顔がまぶしそうに浮び出た。
 それを見るためには、その女が彼よりずっと脊が高かったので、彼はほとんど見上げるようにしなければならなかった。そういう姿勢で見ると、若い女の顔はいかにも神神《こうごう》しく思われた。
 一瞬間の後、男は再び懐中電気をまっ暗な足もとに落した。
 彼は彼|等《ら》とすれちがいながら、彼等の腕と腕が頭文字《かしらもじ》のようにからみあっているのを発見した。それから彼はその暗やみの中に一人きりに取残されながら、なんだか気味のわるいくらいに亢奮《こうふん》しだした。彼は死にたいような気にさえなった。
 そういう気持は悪い音楽を聞いたあとの感動に非常に似ていた。

 そういう音楽的なへんな亢奮をしきりに振り落そうとして、彼はその朝もそこら中をむちゃくちゃに歩き廻った。そのうちに彼は一つの見知らない小径に出た。
 そこいらは一度も来たことのないせいか、町から非常に遠く離れてしまったかのように思われた。
 そのとき彼はふと自分の名前
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