ルウベンスの偽画
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薔薇《ばら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼|等《ら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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 それは漆黒の自動車であった。
 その自動車が軽井沢ステエションの表口まで来て停《と》まると、中から一人のドイツ人らしい娘を降した。
 彼はそれがあんまり美しい車だったのでタクシイではあるまいと思ったが、娘がおりるとき何か運転手にちらと渡すのを見たので、彼は黄いろい帽子をかぶった娘とすれちがいながら、自動車の方へ歩いて行った。
「町へ行ってくれたまえ」
 彼はその自動車の中へはいった。はいって見ると内部は真白だった。そしてかすかだが薔薇《ばら》のにおいが漂っていた。彼はさっき無造作にすれちがってしまった黄いろい帽子の娘を思い浮べた。自動車がぐっと曲った。
 彼はふと好奇心をもって車内を見まわした。すると彼は軽く動揺している床の上にしちらされた新鮮な唾《つば》のあとを見つけたのである。ふとしたものであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすった。目をつぶった彼には、それが※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りちらされた花弁のように見えた。
 しばらくしてまた彼は目をひらいた。運転手の脊《せ》なかが見えた。それから彼は透明な窓硝子《まどガラス》に顔を持って行った。窓の外はもうすっかり穂を出している芒原《すすきはら》だった。ちょうど一台の自動車がすれちがって行った。それはもうこの高原を立ち去ってゆく人人らしかった。
 町へはいろうとするところに、一本の大きい栗《くり》の木があった。
 彼はそこまで来ると自動車を停めさせた。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乗せて走って行った。
 それのあげた埃《ほこり》が少しずつ消えて行くのを見ると、彼はゆっくり歩きながら本町通りへはいって行った。
 本町通りは彼が思ったよりもひっそりしていた。彼はすっかりそれを見違えてしまうくらいだった。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり来ていたから
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