である。
彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた。
その郵便局の前には、色とりどりな服装をした西洋婦人たちがむらがっていた。
歩きながら遠くから見ている彼には、それがまるで虹《にじ》のように見えた。
それを見ると去年のさまざまな思い出がやっと彼の中にも蘇《よみがえ》って来た。やがて彼には彼女たちのお喋舌《しゃべ》りが手にとるように聞えてきた。彼は彼女たちのそばをまるで小鳥の囀《さえず》っている樹の下を通るような感動をもって通り過ぎた。
そのとき彼はひょいと、向うの曲り角を一人の少女が曲って行ったのを認めたのである。
おや、彼女かしら?
そう思って彼は一気にその曲り角まで歩いて行った。そこには西洋人たちが「巨人の椅子《ジャイアンツ・チェア》」と呼んでいる丘へ通ずる一本の小径《こみち》があり、その小径をいまの少女が歩いて行きつつあった。思ったよりも遠くへ行っていなかった。
そしてまちがいなく彼女であった。
彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲った。その小径には彼女きりしか歩いていないのである。彼は彼女に声をかけようとして何故《なぜ》だか躊躇《ちゅうちょ》をした。すると彼は急に変な気持になりだした。彼はすべてのものを水の中でのように空気の中で感ずるのである。たいへん歩きにくい。おもわず魚のようなものをふんづける。彼の貝殻の耳をかすめてゆく小さい魚もいる。自転車のようなものもある。また犬が吠《ほ》えたり、鶏が鳴いたりするのが、はるかな水の表面からのように聞えてくる。そして木の葉がふれあっているのか、水が舐《な》めあっているのか、そういうかすかな音がたえず頭の上でしている。
彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思う。が、そう思うだけで、彼は自分の口がコルクで栓《せん》をされているように感ずる。だんだん頭の上でざわざわいう音が激しくなる。ふと彼はむこうに見おぼえのある紅殻色のバンガロオを見る。
そのバンガロオのまわりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく……
それを見ると急に彼の意識がはっきりした。彼は彼女のあとからすぐ彼女の家を訪問するのは、すこし工合が悪いと思った。しかたなしに彼はその小径を往《い》ったり来たりしていた。いいことに人はひとりも通らなかった。そうして漸《ようや》く「巨人の椅子」の麓《ふもと》の方から近づいてくる人の
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