られました故何も申し上げませぬ、とお言付ください」などと、何を思ったのか、書いて寄こされた。――そこで道綱が何やら気になるような様子で、雨の中をわざわざ訪ねてゆくと、別に何の用事もなかったらしく、ただ頭の君に人懐しそうにもてなされ、女絵など一しょに見ながら常談を言い合って、夜遅く再び雨に濡れて帰って来た。
撫子の方も撫子で、この頃は何か鬱《ふさ》いだようにしている。日ねもす、閉《と》じ籠《こも》ったまま、琴などを物憂そうに掻き撫でたり、そうかと思うと急に止めたりして、少しいらいらしたようにして暮らしている。――こういう物忌《ものいみ》がちな長雨頃の、そういう若い人達の、何処へも持ってゆき場のない、じっとしていたくともじっとしていられないような気もちは私にもよく分かっていた。そればかりではなかった。私は絶えてここ数年というもの感じたことのなかった、そういう何処へも持ってゆき場のないような気もちを、撫子なんぞのために思いがけず蘇《よみがえ》らされたようで、――しかし、今の私にはその昔日の堪え難さそのものさえ、それと一しょにそれが自分の裡《うち》に蘇らせるもののためにか、反って不思議になつかしい気のするものだった。私はそういう心もちに誘われるがまま、一人きりで端近くに出ては、雨にけぶった植込みなどをぼんやりと見入っていたりする事が多かった。まだ殿もお通いにならなかったような若い頃、よく自分がそうやっていたように……
そんな長雨のつづいている間の、すこし晴れて、どことなく薄月のさしているような晩だった。
きょうはひさしぶりの雨間に、さっきから頭の君が道綱のところに来ていられたようだったが、そのうち知らない間に一人でこちらへ入らしってしまわれた。そうしていつもの縁の端に坐られて、例の撫子の事、いつまでもこうして一人でいなければならぬ苦しさなんどを、何かと私にお訴えになり出した。「もうあとの三月《みつき》ばかりなど、すぐ立ってしまいましょう」私はいつもの冷やかな、突っ放すような調子で言った。
「それが反って中途半端で、この頃私にはますます苦しいのでございます」頭の君はそれには構わずに、自分の言おうとする事は押し切っても言ってしまわれようとするように言い続けられた。「御約束下さった日は、あともう三月と申せば、向うに見えて居るも同然なものではございますが、それでいてこのまま只今のように空しく待たされて居りますると、どうもそれに一日一日と近づいて往かねばならぬのがいかにも緩《まだる》く、もどかしくて、反ってそれに近づけば近づくほどその日が遠のくように思われてなりませぬ。もういよいよと言うところまで待っても、私はそのとき自分が此どうにもならない堪え難さのためにどうかしてしまいはせぬかと不安で溜《たま》らないのです。どうか私からその不安を取り除くように、何とかお計らい下さいませんでしょうか」だんだん哀訴するような調子になって来ていた。
そうなればなるほど、私はますます取り合わないように、「まさか私に殿の御暦の中を裁《た》ち切《き》って、すぐ八月が出るように、つないでくれと仰《おっし》ゃるのではないでしょうね?」と思わず笑いを立てながら言ったりした。
頭の君はしかし、にこりともなさらずに、簾《みす》の方をじっと見つめて入らしった。そのため、私はその簾の中に自分の立てた笑いがいつまでも空虚《うつろ》にひびいているような気もちになったほどだった。私はそのときふいと殿の御手紙の事を思い出しながら、「それは御無理な事です。それに、この頃は殿にもこちらから御催促しにくいような事情になりまして……」
「それは又、どうなすったのですか?」頭の君は心もち縁からいざり寄られた。
これはまだ言うのではなかった、と思ったけれど、私はすぐ又、そう、いっそ此事は早くお知らせしておいた方がよくはないかしら、とも思い直して見るのだった。しかし自分の口からはさすがに言い出しにくいので、その殿から寄こされた御文をそのまま、頭の君にお見せしたくないところだけ破り取って、「これを御覧なすって下さいまし。御目にかけてもしようのないものですけれど、まあ、これで殿に催促しにくい訣《わけ》がお分かりになるでしょうから――」と言いながら、簾の下から差し出した。
頭の君はそれを手にせられると、ずうっと縁の先まで滑り出して往かれて、微《かす》かに差している月あかりにすかしながら、それをいつまでも見入っていられた。
そうやってながいこと見て入らしった後、頭の君は何やら口籠りながらそれを簾の下から、こちらへ差し入れられた。それから漸《や》っと聞えるか聞えないほどの声で、「御料紙の色さえわかり兼ねます位で、折角ながら何んとも読めませんでした」と言って、再び縁の方へすさって往かれた。
私は
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