ほととぎす
堀辰雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)とけて寐《ね》らめや
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)源の宰相|某《なにがし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)撫子[#「撫子」に傍点]
−−
われぞげにとけて寐《ね》らめやほととぎす
ものおもひまさりこゑとなるらん
蜻蛉日記
その一
「昔、殿のお通いになっていらしった源の宰相|某《なにがし》とか申された殿の御|女《むすめ》の腹に、お美しい女君が一人いらっしゃるそうでございます。その女君なんぞをお引き取りになられては、如何なものでございましょう? なんでも今は、お二人共、兄《しょうと》に当られる禅師《ぜじ》の君の御世話になられ、志賀の麓《ふもと》に大層心細いお暮らしをなすって入らっしゃるそうでございますが……」
やっと春の立ち返った或日、そんな事を不意に思い出したように年とった女房の一人が、私の前で話し出した。そう、そう言えば、そんな御方の事も聞いていたっけ……と私は以前殿にそういう女の御方もあられた事など、もう殆ど忘れかけようとしていたのを、何ということもなしに思い出させられた。――なんでも故|陽成院《ようじょういん》の御後だとか云われる、その宰相がお亡くなりになって、跡にたった一人の御|女《むすめ》ばかりがお残されになった時、そう云う事をお聞きになるとそのままにはお聞き過ごしになれない例の御性分から、殿はその御方を何くれとなくお世話なすっていらしったようだったが(一度などは私のところからもあるたけの単衣《ひとえ》をその御方の許へお取り寄せになった事もあった――)、そのうちその不為合《ふしあわ》せな御方は、御自分の本意《ほい》からでもなく、ときおり殿をお通わせになさっていられるらしい御様子だった。昔気質《むかしかたぎ》の人らしく、それに殿よりも少し年上だったりしたので、それまで大ぶお躊躇《ためら》いなすったらしかったが、やはり何かと行末が心細くお思いなされていた折でもあろうし、そう頼もしそうにもない殿をもお頼みになるより外はなかったのかと思えば、反ってお気の毒なような位であった。しかし、殿との御仲は、恐らくその御方のお思いなすったのよりも、ずっと果敢《はかな》いものにちがいなかった。――その後一年と立たないうちに、その御方のところに女の御子様がお生まれになったとか云う事を耳にして、或日私がそれをそれとなく殿にお訊《き》きすると、「そう、そんな事もあったかも知れんな」と殿はいかにも冷淡そうに仰《おっし》ゃられたぎりだった。私の前なのでわざとそう素知らぬふりをして入らっしゃるばかりでもなさそうだった。そして、「どうだ、ひとつお前がその子を引き取って育ててやらないか?」などといつも子の少いのを歎いていた私に反って挑まれるように仰ゃられるのを、私は胸を刺されるような思いで聞いていた事も、今、ひょっくりと思い出す。しかし、そんな一昔前の自分と言ったら、只もう自分の不為合せな事ばっかしで胸を一ぱいにしていて、自分のほかにもそんなお傷《いたわ》しい御方さえいらっしゃる事なんぞ、知らずにいられたら知らずにいたい位だった。……
そういう一人よがりな私であったのに、それがこの頃、身も心も衰え出しているとでも云うのか、ときおり見る夢までが妙に気になってならない程で、行末なども何かと心もとなくて、自分が死んだ跡には道綱《みちつな》だけがただ一人ぎり頼りなく残されることを思うと気がかりでならなかった。数年このかた物詣《ものもうで》などするにつけてもどうかもう一人ぐらい女の子でもお授け下さるようにとお祈りし続けていたが、だんだんそんな望も絶えた年頃になり、もうこの上は何処からか賤《いや》しくない腹の女の子でも引き取って、それを養うよりほかはあるまいなどと、誰れかれにともなく私はそんな事を言い言いしていたのだった。……
――私は、恐らく殿なんぞにももう忘れられているかも知れないような、その不遇な少女を自分が引き取ってもいいような事を言うと、私にその話をした女房はすぐ伝手《つて》を求めて問い合わせて呉れたが、その日かげの花のように誰にも知られずにこっそりと大きくなった少女はもう十二三ぐらいになっているそうだった。そんないたいけな子だけを相手に、その不為合せな御方は、志賀の東の麓に、近江の湖を前に見、志賀の山を後ろにした、寂しい里に、言いようもなく心細く明し暮らして入らっしゃるとかいう事だった。その二人のお身の上をつぶさに聞けば聞くほど、何か私も身につまされて、そう云うお暮らしではさぞその御方もこの世に思いの残るような事ばかりであろうと思いやられるのだった。
その人の異腹の兄
次へ
全17ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング