頭の君に巧みにすかされたような気がして、「いいえ、こんなものはもう破いてしまいますから――」と悔やしそうに言ったものの、しかしそれにはすぐに手を出そうともしなかった。
 頭の君が縁の方から再び言われた。「どうぞお破りにだけはならないで下さいまし。昼間、もう一度、拝見させて戴きとうございます」何処までもそれが読めなかったような御様子をなさろうとして入らっしゃるらしかった。それからそのまま頭の君は無言でお控えになっておられるかと思っていたら、一人で何を口ずさんで入らっしゃるのだか分からないような事を口ずさんで入らしった。……
「あすは役所の方へは助の君に代りに往っていただいて、私はこちらへもう一度、それを拝見に参りますから――」頭の君がそう言い残されて、其処を立ち去って往かれたのは、それから間もなくの事だった。
 その跡で、私は半ば気の抜けたように、そこの簾の下に差し入れられたままになっている殿の御文を破ろうとするのでもなく、手に取って見ると、まあ何とした事か、私は頭の君に御目にかけたくないと思って破ったところを反対にあの方に御目にかけてしまっていたのだった。その上、誤って御目にかけた紙の端が半分ほど更に引きもがれているのに気がついた。私にはすぐ、あの薄月の微かに差している縁先きで頭の君が帰りぎわに何かしきりに口ずさまれて入らしった姿が思い出された。
 私はその頭の君に見られた紙片の丁度裏あたりに、あのとき自分で自分を嘲《あざ》けるように一ぱいに散らし書きをしたままであったのを、それまで忘れるともなく忘れていたのだった。――「いまさらにいかなる駒かなつくべき……」
 私はふと口を衝《つ》いて出たその文句が自分の胸を一ぱいにするがままにさせながら、なぜか知ら、撫子の悲しい目《まな》ざしを空《くう》に浮べ出していた。いまにも私に物を言いかけそうにして、しかしすぐに何んにも言うまいと諦めてしまうような、撫子のしおらしい目《まな》ざしが、それまでついぞそんな事はなかったのに、その夜にかぎって私の目のあたりからいつまでも離れなかった。

   その四

 その翌朝、頭《かん》の君《きみ》は道綱のところへ使いの者に、風邪気味で役所へ出られそうもありませんから一寸お出がけにでもお立ち寄り下さい、とことづけて来させた。ゆうべの出来事を少しも知らない道綱は、又例の事かと思ったらしく、いつまでも出仕《しゅっし》の支度をぐずぐずしていると、再び使いの者が来て、お待ち兼ねのようですからどうぞ早く入らしって下さいませ、としきりに催促しているらしかった。何んの用があるのか分からなかったけれど、何か私にも気がかりでない事もなかった。
 が、そのとき頭の君は私の方へも別に御文を持ってよこされたのだった。披《ひら》いて見ると、「風邪気味で、折角ゆうべ御約束したものを拝見に伺えず、なんとも残念でなりませぬ。私なんぞには忖度《そんたく》いたし兼ねます事ながら、何か殿にわざと御催促なさりにくいような御事情がおありなさいまするなら、然るべき折を見てなりと、よいように御取りなし下さいまし。此日頃、われとわが身が不安になるほど何が何やら分からず思い乱れておるような私の気もちをも御推量下すって」といつもに似ず乱雑な、読みにくいほどな手跡で、認《したた》められてあった。
 私はいろいろ考えあぐねた末、それに対する返事はそのまま出さずに置いた。

 しかし、あくる日になってから、矢っ張それぎり返事を差し上げないのは、反ってこちらで何んだかこだわっているようで、若々しい遣《や》り方《かた》ではないかと私は考え直して、いかにも何気なさそうに返事をすることにした。「きのうはこちらに物忌《ものいみ》などいたす者がございまして、御返事もつい書けずにしまいました。その事をどうぞ川水の淀《よど》みでもしたかのように、心あってかなんぞとはお思いにならないで下さいまし。殿へはこちらからは使いをやるよすがさえ無いのが、御存知のとおりの、今のわたくしの果敢《はか》ない身の上。――御文の紙のいろは、昼間御覧なすっても、同じように覚束《おぼつか》のうございましょうとも」
 夕方、その文を頭の君の許へ届けに往った使いの者は、先方に法師姿をしたものがおおぜい集ってごった返していたので、只、それを置いて参りましたと言って戻って来た。
 まだ風邪気味で寐《ね》ていらっしゃるらしい頭の君から「きのうは法師共がおおぜい参っておりました上、日も暮れてからお使いの方が見えられましたので――」などと言いわけがましく書いてよこされたのは、その翌日になってからだった。「――ここ数日、どうしたのか私の庭を離れず、一羽のほととぎすが卯《う》の花《はな》の蔭などでしきりに啼《な》き立《た》てておりますが、こうして日ごと一人きりで歎き明
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