を見ていようという気で、私はそれには差しさわりのないような返事しか差し上げなかった。その夜は頭の君もすぐお帰りになられたらしかった。

 そんな事があってから暫くは、頭の君も何かと遠慮がちになされて、私達のところへも余りお立ち寄りにはならなくなった。只|隙《ひま》さえあれば、道綱を呼びにお寄こしになって、別に為事《しごと》もないのにいつまでもお手放しにならなかった。それにはさすがの道綱も殆ど困っているらしかった。
 私も私で、撫子などを相手に、再び昔に返ったような無聊な日々を迎え出していた。昔に返ったような? ――しかし、それらの日々は私にとっては、前よりかもっと無聊で、もっと重くろしいところのあるのを認めない訣《わけ》にはいかなかった。私はそれをば撫子にも話して置かなければならない事をまだ話していないことの所為《せい》にしていた。どうせいつか話さなければならないのなら――と思いながらも、撫子のまだ余りに子供じみた身体つきや、もううすうす頭の君の求婚の事を勘づいていて、私からそれを聞かされるのをそれとなく避けているとしか思えない折々の羞《はず》かしそうな様子だのを見ると、私にはどうしてもその話が持ち出せないのだった。
 そういう撫子の羞かしそうな姿が気になってならない時など、どうかして縁の方から橘の花の重たい匂が立って来たりすると、いつかその簾のそとに打《う》ち萎《しお》れていた、若い頭の君の艶な姿が、ふいと私には苦しいほどはっきりと俤《おもかげ》に立ったりするのだった。……

 そんな或日の事、思いがけず道綱が殿の久しく絶えていた御消息を私のところに持って来た。何事かと思って、私はいそいで披《ひら》いて見た。「この頃よく右馬頭《うまのかみ》がそちらへ参るそうな。八月まで待たせなさいと言ってあるのに。人の噂によると、なんでもお前が右馬頭を派手にもてなしてやっているそうではないか。お前に会えるのだったら、怨みの一言も言ってやりたいものだ」
 その消息を手にしたまま、余りの事にしばらく私は空《うつ》けたようにさえなっていた。こんな事を、あの気位の高い殿がよくもまあ私になど仰ゃって来られたものだ。事もあろうに、あんなお若い頭の君のことで私をお疑ぐりなさるなんて。――そう思うと、何より先きに、ひとりでに苦笑とも冷笑ともつかないようなものが私の胸の裡《うち》におさえ兼ねたように込み上げて来た。その一方、何とも云えず悔やしいような気もちもしないではいられなかった。……
 そうやってその消息を手から離しもしないで、しばらく空けたようになっていた私は、やっと気を変えて、ともかくも早速殿に何んとか返事を差し上げなければならないと思った。が、何を書いても、誰が誰に向って書いても同じような弁疏《いいわけ》めいた事しか書けそうもなかった。そんな事位でこちらの心をお疑ぐりになるのを反って殿にお怨み申したい――そう自分でありたいと思うような気もちには、しかしどうしても今の私はなれなくなっていた。自分の心が既に殿からはこんなにも離れてしまっているのかと思って、私はみずから驚いた位だった。
 私はそのまま悔やしそうに、その殿の手紙の裏に何んと云うこともなしに散らし書きをし出していた。こういう今の自分の何もかもを引括《ひっくる》めて自嘲したいような気もちにしかなれずに。――

  いまさらにいかなる駒かなつくべき
    すさめぬ草とのがれにし身を

 私は殿には返事を差し上げる代りに、そんな歌だけ書いてお送りする事にした。それを道綱に持たせてやった後も、しかし私はいつまでも自分の裡に何物に対するともつかない、果てしない不満のようなものが残っているのをどうしようもなかった。
 頭の君はこの頃も相変らず、何かと言っては道綱を呼びに寄こしたり、又遠慮がちに道綱のところに御自身でも入らしったりなすっているらしい。頭《かん》の君《きみ》はこんどの事は何も御存知ないのだから、別にかれこれ言うこともないので、私はそのまま勝手にさせておいた。そのうち五月になった。時鳥《ほととぎす》がいつになくよく啼《な》いた。昼間からこんなに啼くことも珍らしい。厠《かわや》にはいっていて、ほととぎすの啼き声を聞くのは悪い前兆だといって昔から人々が忌むらしいが、私は屡《しばしば》それをすら空《うつ》けたように聞くがままになっていた。……

 いつか世の中は長雨《ながさめ》にはいり出していた。十日たっても、二十日たっても、それは小止《おや》みもなしに降りつづいていた。
 或夜など、雨のためにひさしく音信《おとずれ》のなかった頭の君から突然道綱の許《もと》に「雨が小止《おや》みになったら、ちょっと入らしって下さい、是非お会いしたい事がありますから。どうぞお母あ様には、自分の宿世《すくせ》が思い知
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