「夜更けて、いま頃になると、いつも余所《よそ》ではそんな事をなさるのでしょうけれど――」と言い足した。
そういう冷めたい、それなりに何処となく熱の籠《こも》ったような私の言葉が、思わず頭の君を、もう手をかけそうにしていた簾から飛びすさらせた。「そんな御あしらいしかなされまいとは夢にも思いませんでした。」頭の君は其処に再び顔を伏せながら、「暫くなりと簾のなかへ入れていただけたら、只もうそれだけでよろしゅうございましたのに。若しこんな事で御|気色《けしき》を悪くせられたようでしたら、重々お詫《わ》びいたしますから――」と詫びられていた。
私はそういう頭の君に更に圧《お》しかぶせるように「いくら私が年をとっていて、私の事を何んともお思いなさらずとも、簾の中へ御はいりなさろうというのは、まあ何んという事です。その位の事が御わかりにならないあなた様でもありますまいに――」と言い続けていたが、そのままその場に居すくまれたようにして入らっしゃる頭の君を見ると、さすがに少しお気の毒になってきて、それから急に語気を落すようにしながら、「昼間、内裏《うち》などに入らっしゃるようなお積りで、此処にだって入らっしゃれませんか?」と半ば常談のように言い足した。
「それではあんまり苦しゅうございましょう」頭《かん》の君《きみ》は、そういう最後の言葉をもほんの常談として受け取るだけの余裕もないほど、悄《しょ》げ返《かえ》って、そのままずうっと縁の方まですさって往かれた。さっきの橘《たちばな》の花の匂はそちらから頭の君が簾《みす》の近くまで持ち込んで来たのにちがいなかった。
私はふと、その一瞬前の何んとも云えず好かった花の匂を記憶の中から再びうっとりと蘇《よみがえ》らせていた。それがそのまま暫く私を沈黙させていた。
頭の君はそういう私をすっかりもう自分の事を取り合おうとはしないのだと御とりになって、「何だかすっかり御気色をお悪くさせてしまいまして。もう何も仰《おっし》ゃって下さらなければ、私は帰った方がよろしいのでしょう。――」
そう言って、頭の君は、さも私を怨《うら》むように爪《つま》はじきなどなさりながら、なおしばらく無言で控えて入らしったが、頭の君がそうお思いになって居られるならそれでもいい、と私が更らに物を言わずにいたものだから、とうとう立ち上って帰って往かれるらしかった。
丁度月のない晩だったから、私は松明《まつ》などお持たせするように言いつけた。しかしそれさえ受け取ろうとなさらずに、頭の君は何かすねたように、橘の花の匂の立ちこめている戸外へお出になって往かれた。
そうひどく気もちを拗《こ》じらせたようにしてお帰りになったので、もう当分入らっしゃらないかも知れないと思っていたが、翌日になると、又頭の君は役所へ出がけに道綱のところへいつものように「御一しょに参りましょう」と誘いにきた。いそいで道綱が出仕の支度をしている間、硯《すずり》と紙とを乞うて、一筆|認《したた》め、それを私の許《もと》に持って来させた。見ると、ひどく震えた手跡で、「前生の私にどんな罪過がありましたので、私はいまこうも苦しまなければならないのでしょう。このままもっと苦しめられるようでしたら、私はとても生きておられそうもありませぬ。何処でも私を入れて呉れるところがありましたら、山にでも、谷にでも。――しかし、もう何もいいませぬ」と認められてあった。
私はそんな頭の君のような若い御方の仰ゃる苦しみなんぞはお口ほどの事もあるまいと思ったが、それでもそのひどく震えたような手跡を見ていると、さすがに胸が一ぱいになって来、いそいで筆を走らせて、「まあ、そんな恐ろしい事を仰ゃるものではありません。あなた様がお怨みなさるべきは、この私ではないではありませんか。山のことも一向不案内なわたくし、まして谷のことなどは――」と認めて、すぐ持たせてやった。
それから暫くして、頭の君はいつものように道綱と一つ車で、役所に出かけて往ったようだった。
その夕方、頭の君は再び道綱と同車して帰って来られた。そうして私のところへ又、何かお認めになって寄こされた。こんどは見違えるばかり鮮な手跡で、「けさほどはたいへん取り乱した事を申し上げて恐れ入りました。仰せ下さいました事、しみじみ胸に沁《し》みました。私はきょうは本当に生れ変ったような気がいたしております。これからは、もっと気をしっかりと持って、殿の仰せどおりにお待ちいたす決心をいたしました。只、それまでは他に何んのなす事もなく、無聊《ぶりょう》でありまする故、どうぞ縁の端にでもおりおり坐らせて置いて下さいませんか」と書かれていた。
まあ、そう急に神妙なお気もちになられたってそれがいつまで続くことやら。そうも思われたものだから、ともかくも今後
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