しく暮らしている母の事などを少しも恋しそうにはしない位、――だが、身体つきなどはまだ細々としていて、全体に何処となく子供子供している。初事《ういごと》などはまだ遠そうである。――そういう誰の目にもつきそうもない小さな草花のように生い立っているこの少女を、まあその御方は何処からお聞きつけになって、もうそれに御目をかけられようとしているのだろう。……

 右馬頭《うまのかみ》はその寮で道綱にお出合いなさると、話のついでにかならず撫子について同じような事を繰り返しお尋ねになるらしかった。最初は道綱も気になると見え、逐一それを報告していたが、私の方で一向取り合おうとしなかったので、しまいにはもう私には何も聞かせないようになった。ところが、或日、夜更けてから帰って来るなり、もう私の寐《ね》ているところへ這入ってきて、「実はきょうお父う様にお目にかかりましたら、お前の寮の頭がこの頃おれをしきりに責めるのだが、お前のところの撫子はどうしているな、もう大ぶ大きくなったろう、などと仰《おっし》ゃっておりました。それから寮で、頭《かん》の君《きみ》にお逢いしましたら、殿から何かそなたに仰せにはなりませんでしたか、と訊かれたので、その通りにお答えしますと、頭の君はそれをどうお取りになられたのか、それでは明後日が好い日だから御文を差し上げたい、などと私に言われるのです。私は何んとも御返事いたさずに参りましたが――」と生真面目な道綱はさも困った事になってしまったようにそれを話すのだった。私はそれを一通り聞くと、「まあ本当に何を勘ちがいなすって入らっしゃるのでしょうね。まだ撫子がこんなに小さいとは御存知ないからなのでしょうよ」などと事もなげに返事をして、心配そうな道綱を去らせた。そうして私もその夜はそのまま寐た。
 さて、その日になると、矢っ張、頭の君から御文があった。「日頃からわたくしの思っておりまする事を殿にお頼みいたしておきましたが――」などと丁寧に書いて、殿からそちらへ自分で文を差し上げよと言われましたので、こうやって消息を認《したた》めましたと言って来たのだった。私はそれを受け取って、まあ頭の君も撫子がこんなに穉《おさな》い事がお分りになりさえすればと、おかしい位に思って、さしあたり返事はどうしようかと迷っていたが、いっその事この手紙を殿のところに持たせてやって何んと仰ゃるか聞いて来させようと思った。が、御物忌《おものいみ》やら何やらでなかなかそれを殿に御目にかける事が出来ないでいるらしかった。一方、頭の君は頭の君で、こちらの返事のいつまでもないのをしきりに怨《うら》んで入らっしゃるらしかった。仲に立って、道綱は一人で殆ど困っていた。ようやく殿の御返事のあったのを見ると、「おれがどうしてそんな事をまだ許すものか。そのうち考えて置こう、と右馬頭には言って遣っただけだ。返事はお前が好いように取做《とりな》せ。そんな姫のいる事さえ誰もまだ知ってはいない位だのに、若《も》しそんな右馬頭でもそちらに通ったりしてみろ、お前がおかしく思われてもしようがないぞ」といかにも心外な事らしく仰ゃって来られた。そんな事を言われれば、こちらだって腹が立つ。その腹いせのように、私はつい大人げなく頭の君にも「ちょっと殿の許に使いを遣りましたら、まるで唐土《もろこし》にでも行ったように長いことかかって、漸《ようや》く御返事をいただいて参りました。しかしそれを見ますと、ますます私には分かり兼ねる事ばかりなので、何んとも返事のいたしようがございませぬ」と手きびしい返事を書いてやった。そんな風にいつになく腹を立てた後で、ふと気がつくと、なんでもない事だろうと思っているうちに、急にすべての事がなんだか思いもよらない方へ往ってしまいそうな危惧《きぐ》が、其処には感じられないでもなかった。私はそれを感ずると、何がなし心の引き締まるような気もちがした。――そんなこちらの冷めたい返事にも、私の惧《おそ》れたとおり、頭の君はすこしもお懲りにならず、それどころか反って熱心に同じような御文をお寄こしになり出したのだった。もうそうなると、こちらではなるべくそれに取り合わないようにしているよりしようがなかった。

 ところが、三月になり、或日の昼頃「右馬頭様がお出になりました」と言うことだった。突然だったのでびっくりしたが、私はすぐざわめき立った女房たちに「まあ静かにしてお出《いで》」とたしなめ、それを取次いだものには「好いから、いま、私達は留守だとお答えなさい」と言いつけた。
 が、そうこうしているうちに、一人の品のいい青年が中庭からお這入りになっていらしって、目の疎《あら》い籬《まがき》の前にお立ち止まりになられたのが簾《みす》ごしに認められた。練衣《ねりぞ》を下に着て、柔かそうな直衣《のうし》を
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