観念したように閉じていた目をやっと見ひらき、出来るだけ心を落着けるようにして、自分の前にこの日記を置いた。
一生|受領《ずりょう》だった父が、私のためにいろいろと気づかって呉れて、私達をいまの中川のほとりの住居に移らせて下すったのは、去年の秋の半ば頃だった。殿が私のためにあてがって下すっていた、これまでの家はますます荒れ放題に荒れてきて、もう住み難いばかりになっているとは言え、父の勧告に従って其家を去ってしまえば、同時に殿との間もこちらから絶やすも同様になるので、最近わざわざ志賀の里から引きとったばかりの養女の事など考え、さすがにそれを自分ひとりでは決し兼ねて、まあそう言えば殿の方でどうお出でになるだろうかと、それとなくその移居の事をほのめかすように殿にお伝えして置いたのだった。けれども、殿からはその事については何んとも御返事がないばかりか、この頃は例の近江とかいう女の許へばかり繁々とお通いになって入らっしゃると云うお噂を耳にしたので、私はいよいよもうこれまでと思い、殿にはなんともお断りせずに、父の言うとおりに中川の家に移ったのだった。大層山近く、河原に沿うた、ささやかな家で、本当にこんなところにこそ住いたいと年頃思っていたような住いであった。――其処へ移ってからなお二三日は、殿はまだそれをお知りになった様子もなかった。ようやく五六日立ってから、「どうしておれに知らせてくれなかったのだ」と御文を申《もう》し訣《わけ》のように寄こされた。「お知らせいたそうかとも思いましたが、こちらはあんまり片寄った処でございますので。本当に、せめてもう一度なりと、旧《もと》の処でお会いいたしとうございました」と私が気強くすっかりもう仲の絶えたようにして返事を差し上げると、殿の方でもお怒りになったかのように、「そうか、そんな不便な処ではおれには往かれそうもない」と言って寄こされたぎりだった。それからその儘《まま》、私達はとうとう仲が絶えた形になった。
九月、十月とたち、早朝など蔀《しとみ》を上げて見出すと、川霧が一めんに立ちこめていて、山々は麓《ふもと》すら見えないようなこともあった。それほど寂しい、それほど佗《わび》しい住居に自分自身を見出すのが、私にはせめてもの気休めになった。その川を前にして果てしもなく拡がっている田の面には、ところどころに稲束《いなたば》が刈り干されていた。たまたま私達の許《もと》に訪れて来るような人でもあると、その青稲をそのまま馬に飼ってやっているのも、いかにもあわれが深かった。小鷹狩が好きなので、ときおり野へ出ては鷹を舞い上がらせたりしているものの、こんなところでもって一緒に暮らすようになった道綱は、まだ若いだけ、何んだかすべてが物足らなさそうに見えた。
そのままやがて冬になろうという頃、こちらではもうすっかり仲の絶えた気でいた殿の許から、突然、冬の着物を使いの者に持って来させて、これを仕立ててくれなどと言って来られた。「御文もありましたが、途中に落して来てしまいました」と使いの者がしきりに言《い》い訣《わけ》をしていたが、最初からそんなものはお持たせにならなかったのだろうと思われた。私はもう意地を立てとおす気もなく、言われるなりにそれを仕立てて、こちらからも文を附けずに送って差し上げた。その後、そんな事が二度も三度も続いてあった。なかなか仲が絶えそうで絶えないのが気になったが、それもまあこんな縫物位のためではと、私達の果敢《はか》なかった仲がいまさらのように思い返されたりしているうちに、その年も暮れたのだった。
ながいこと大夫《たいふ》の位より昇進しなかった道綱が、ようやく右馬助《うまのすけ》に叙せられたのは、その翌年の除目《じもく》の折だった。殿からも珍らしくお喜びの御文を下さったりした。今度の昇進はよっぽど道綱も嬉しいと見え、いそいそとして其処此処御礼まわりなどに歩いていたが、その寮《つかさ》(右馬寮)の長官が丁度道綱には叔父にあたる御方なので、其処へも或日お伺いすると、まだお若いその御方は非常に歓《よろこ》ばれて、よもやまな物語の末、何処からお聞きになって知っていらしったのか、私の手許に養っている撫子の事を何くれとなくお問いになり、「御いくつになられました?」などと熱心に訊《き》かれたそうだった。帰って来てから、道綱が私にその事を話して聞かせたが、私は「まあ、いくらお好色《すき》な方だって、こんな撫子を御覧になったら――」と答えたぎり、なんとも気にはとめなかった。
撫子は去年志賀の里から私の許に引き取られてきた頃から見れば、だいぶ大人寂《おとなさ》びた美しさも具え出して来てはいる。そして幼少の折からいろいろ苦労をして来たせいか、年の割には世の中の事は何もかも分かるようで、私の前なんぞでは山里に一人佗
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング