残すような事もあまりあるまいと思われたが、只、こうしていろいろな夢をいだいて私のところにやって来たでもあろう撫子がまあどんなに胸の潰《つぶ》れるような思いをする事だろうと、その事のみが気づかわれるのだった。
もう梅雨《つゆ》ちかいそんな或日、突然殿があの祭の日からはじめてお見えになられた。私が空《うつ》けたような顔ばかりして、いつまでも物を言わずにいると、「どうして何も言わないのだ」と、殿は私の機嫌をとるように言い出された。「何も言うことがございませんので――」と私が思わず生返事をすると、殿は急にこらえ兼ねられたようにお声を荒らげて、「どうしてお前は、来てくれない、憎い、悔やしいと、おれを打つなり抓《つね》るなりしないのだ」などとお言い続けになった。私はしばらく打ち伏したまま無言で聞いていたが、稍《やや》たってから、やっと顔をもたげ、「わたくしの方で実は申し上げたかった事を、そのように何もかも御自分で仰《おっし》ゃられてしまいましたので、もう私の申し上げたい事はなくなりました」と言いながら、私はいつか自分がいかにも気味よげにほほ笑《え》みだしているのを感じていた。
その日はそうやって一日中、二人共、むっつりとし合ったままで対《むか》い合《あ》っていた。殿は撫子を呼びにやられたが、撫子までがきょうは気分が悪いと言ってとうとう出て来なかった。殿はますます苦々しげな御顔をなすって入らしったが、それでも何かがお心残りのようにすぐにはお立ちにもならず、日暮れ近く、漸《ようや》くお帰りになって往かれた。
しばらく此日記を附けずにいた。みずから進んでそれを附けたいような気にもならず、又、それを附けずにいることが気にもならなかったので、そのまま放っておいたのである。もともと、ながらく途絶えていた此日記を再び何んと云うこともなしにこの頃附けはじめていたのは、前のように自分で自分を何んとかしなければならないと言った、切迫した気持なんぞからではなかった。只、あれほど自分の事だけでぎりぎり一ぱいになっていた私が、こうしてあの方に棄てられた女の子を養うような余裕のある心もちにまでなり出したのが自分にも不思議な位で、それで筆をとり出したのだが、矢っ張、此日記を私に書かせたものは、あの方への、又、自分自身への一種の意地であったかも知れぬ。しかし、そういう気もちもだんだん無くなりかかっている現在、その日記がこうして終るともなく終ろうとしているのも当然であるのだろう。此日記にいつかまた別の弾んだ心で向えるような日の来るまで、しばらくそれを仕舞っておくため、私はいま、この物憂い筆をとっていると言えようか。
ここ数日、雲のたたずまいが険しく、雨が思い出したように降ったり歇《や》んだりするような日が続いている。この頃はよく明け方なんぞに時鳥《ほととぎす》が啼《な》いているらしく、女房の一人が「ゆうべ聞いた」などと言うと、他の女房がすぐそれに応じて「けさも啼いていた」などと話し合っているが、人もあろうに、この私がまだこの夏は一度もそれを聞かないなんぞと言うのは羞《はず》かしいような気がする程。――それほど、この頃はどう云うものか我にもなくぐっすりと寐《ね》てばかりいる自分をかえり見て、私は皆の前では何も言わずにいたけれど、心のうちではひそかに「自分はいくらぐっすり寐ていたって、本当に打ち解けて寐ているわけではないのだ。恐らくこの頃私自身にさえ見向きもされなくなってしまった私の物思いが、毎夜のように自分の裡《うち》から抜け出して、時鳥となり、あちらこちらを啼き渡っているのだろう」などと考え考え、そんな負けず嫌いな気もちを歌によんだりして、纔《わず》かに悶を遣《や》っていた。しかし、それを誰に見せようでもなく、私はそこいらの紙に書き散らしては、それがそのまま失せるもよいと思っていた。……
その二
もう一年余も披《ひら》かなかった此日記を取り出して、それにまだこう云う気もちではついぞこれまで向った事もないようにさえ見える、心のときめきを感じながら、いま、夜の更けるのも私は知らずにいる。自分にとって附けても附けなくとも好いようなものになりかかっていた此日記を、再びこんな切ない心もちで手にとる事があろうとは、夢にも思わなかった事である。
頭《かん》の君《きみ》がお立ち去りになって往かれたのは、もう余程前のことであろう。その跡、私はながいこと、灯をそむけたまま、薄暗いなかに、ひとり目をつむっていた。いつまでもそうしながら、自分でも何をとははっきりと分からないようなものを考えで追い続けていた。そしてその自分でもはっきりとは分からないもののために自分の心が切ないほど揺《ゆ》らいでいるのを、私もまた切なくそれを揺らぐがままにさせていた。……
暫くしてから、私は
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