れるようになった。それもこの少女のために気が紛《まぎ》れるのかと思って、私は毎日のようにその少女を相手に歌を詠んだり、手習をさせたりしていた。
 殿もこの頃は物忌がちなので、お泊りになることは少ないが、よく昼間などお見えになる。そんな昼なんぞ、もう自分の老いかかった姿を見られるのは羞《はずか》しいようだが、どうにも為様《しよう》がないので、少女を自分の側から離さぬようにして物語のお相手などしているが、いつも派手好みで、匂うような桜がさねの、綾模様《あやもよう》のこぼれそうな位なのを着付けていらっしゃる殿に対《むか》っていると、いまさらのように自分の打ちとけて、萎《しお》たれたようななりをした姿がかえり見られ、可哀いさかりのこの撫子のために、こうしてわざわざ入らっしゃればこそ、さぞ自分は殿には見とうもなく思われたろうと悔やまれがちだった。
 葵祭《あおいまつり》が近づいた。その日になると、私は若い人たちを連れて、忍んで出掛けていった。暫く祭の行列を見物しているうちに、なかでも一きわ花やかに先払いさせながらやってくる御車があったので、どなたかしらと思って注意をして見ていると、その前駆の者共のなかに幾人も見馴れた顔があった。「矢っ張、殿だ」と思いながらも、自分達の車のまわりで「あれはどなた様でしょうか……いままでの中でも一番御立派なようだ……」などと人々がざわめいているのをそれとなく耳に入れていると、こうして忍んだ姿で来ている自分達が一層みすぼらしいような気がされてきてならなかった。簾をすっかり捲き上げられたまま、きらびやかにお通り過ぎになって往かれたが、車上の人はまぎれようもなく、あの方だった。――が、まあ何ということか、あの方はすぐ目の前をお通り過ぎになられながら、その瞬間私達の車をお認めになられたかと思うと、ふいと扇で顔をお隠しになられて、そのまま其処を通り過ぎて往かれてしまったのだった。
 車の奥ぶかくに自分と一しょにいた撫子にもそれは気がついたにちがいなかった。私がそれについては何んとも言わずに黙っていると、少女も心もち蒼いような顔をしながら、しかし車上の殿なんぞは見もしなかったような風をしていた。その少し蒼ざめた顔色は、家に帰るまで、直らなかった……
 夕方、そんな事が知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に帰りを早めた私達の車よりか、ずっと遅くなってから、道綱の車が帰ってきた。
 なんでもその祭の帰りぎわ、混雑をきわめた知足院のあたりで道綱の車は一台の小ざっぱりとした女車のうしろに続き出したので、そのままその跡を離れぬようにして附けて往くと、向うでもそれに気がついたらしく、家を知らせまいとするのであろうか、ずんずん車を早めて他の車の間に紛れ込もうとするのを、とうとう最後まで附けて往って、その女の家(大和守の女《むすめ》だとか……)をつきとめて来たとか云う話だった。――その小さな冒険は、内気一方に見える道綱にも少からず気に入ったらしかった。そうしてその跡を附けて往った車の若い女のことを、その姿を見もしないのに、何んとなく懐しく思《おも》い初《そ》めているように見えた。
 あくる日になって、何を思われたか、殿から御文を寄こされた。しかし、きのうの出会には一切お触れになっていなかった。私はその返事の端にすこし拗《す》ねたように、「きのうは大層まばゆいばかりのお出立《いでだち》だったと皆が申しておりますが、どうして私達にだけはお見せ下さらなかったのですか。本当に若々しいなされ方でしたこと」と書いてやったら、すぐ折り返し、「あれはおれの姿が老いぼれていて羞しさのあまりにした事なのだ。それをまた、けばけばしい姿なんぞと誰が言っているのか」などと書いて来られたが、よくもまあそんな空々《そらぞら》しい事が仰ゃれたもの。

 そんな葵祭《あおいまつり》が過ぎてから、殿は又かき絶えたように入らっしゃらなくなった。
 道綱は、この頃、しきりに例の大和守の女《むすめ》の許《もと》へ文をやっては、内気な子だから、女の方の返事の思わしくないのを、一人でもどかしく思っているらしい。私にはまだ何も打ち明けてくれないので、こちらも何も言わずに見ているよりしようがない。日ねもす何か憂わしげな様子で庭面《にわも》など眺めながら暮らしているかと思うと、次ぎの日は小弓の遊びなどに出かけて往って、きょうは上手に射たなどと帰って来るなりその日の模様をはしゃいで皆に話したりするのだった。
 撫子の方はまた撫子で、ようやく世の中と言うものが分かりかけて来た少女らしく、あれから何か私に気を置いて、つとめて顔をさえ見合わせないようにしている。小さい心に過ぎていろいろ思っている事もあろうかと、いたいたしいような位。――私はもうこのまま殿がいつお絶えになろうとも、自分自身は思い
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