赫かせていらしった。そして殿は「いっその事おれのところへ連れて往こう。――なあ、小さいの」と言いながら、少女の方へふり向かれた。少女はどうしてよいか分からず、いかにも当惑しきったように、しかし顔だけはあでやかにほほ笑んで見せていた。……
翌朝、殿は少女を又お呼び寄せになって、髪などをしきりに撫でておられた。そうしてお帰りぎわに、「さあ、これからおれの所へ一しょに往くんだよ。いま、車をこちらへ寄せさすから、そうしたらさっさとお乗り」などとそんな小さな子にまで揶揄《からか》われていらしった。少女はただもう困ったように袖を顔にしていた。殿はそういう少女の可憐な様子を、心残りそうにかえり見られがちに、帰って往かれた。
それからは御文を寄こされる度毎に、端にきまって「撫子[#「撫子」に傍点]はどうしているか」などとお書き添えになられるのだった。「山賤《やまがつ》の垣は荒るとも」などと云う古歌を思い出されてか、そんな撫子《なでしこ》なんぞとあわれな名をいつのまにかお附けになっていられるのも、本当に心憎いほどなお思いやりだこと。あいにくそれから殿も御物忌《おものいみ》つづき、こちらも何かと物忌がちで、殆ど門も鎖《とざ》したぎりなものだから、入らっしゃろうにも入らっしゃれず、そういう御文を毎日のように、門の下から差し入れさせて往かれるのも、それだけでもまあ大層なお心変りのように見える。
それから十数日ばかり立った或日の未《ひつじ》の刻頃、「殿がお見えです」と言い騒いで、俄《にわ》かに中門を押し開けなどしているところへ、車ごとお這入《はい》りになって来られた。
車の傍に男共が数人寄っていって、轅《ながえ》をおさえながら、簾《みす》をまき上げると、中から殿はお降りになられて、いきなり「綺麗だなあ」と仰《おっし》ゃりながら、いまを盛りと咲いている紅梅を見上げ見上げ、その下を徐《しず》かにお歩きになって入らしった。
そしていつになく上機嫌そうにして入らしったが、あいにくあすは方塞《かたふさが》りになっている事を申し上げると、「そんならそうと、なぜ先に知らせて置いて呉れなかった」といかにも不満そうに仰ゃられた。「若《も》しそうお知らせして置きましたら、どうなさいました?」と私はつい言わなくともいいのに言いかえした。「むろん方違《かたちが》えをして来たさ」と殿も殿で、あんまり見え透いたような事を仰ゃるものだから、こんどは私も少しばかり気色を顔に出して、「それほどのお気持がおありなさいますかどうか、今後に試めさせていただきます」と応じた。
そんな小さな事から、又いつものように不和が高じそうになって来たので、殿はすこし気むずかしい顔をなすっていられたが、やがてこないだの少女が呼ばれて来ると、やっと又上機嫌になられて、側にお呼び寄せになり、髪などを撫でられながら、「この子には手習や歌なんぞよく仕込んでやってくれ。そういう事は、お前になら任せて置けるからな。――まあ、もうすこうししたら、向うの家の奴なんぞと一しょに裳着《もぎ》の祝をしてやろうよ」などと愉《たの》しそうに御相手をせられていた。そのうち日が暮れ出したので、「おなじ事なら院へ参ろう」と言い出され、又皆を騒がせて車にお乗りになり、帰って往かれた。
殿をお見送りした後、一人ぎりになって、私はそのままいつまでもその暮れようとしている庭面《にわも》をぼんやりと見入っていた。一種言うに言われないほどの好い匂が、ときおりその夕闇のなかに立って、それがまだ鶯なんぞを寐《ね》つかせないでいるらしい。西《にし》の対《たい》あたりから、それに雑《まじ》って、つい今しがた少女の習い出したらしい琴の幼い調べが途絶えがちに聴えて来る。――私はふとこんな美しい春の夕をさえあの御方はまあ山里にお一人でどうして入らっしゃるだろうかと思いやった。あたりのいかにも充ち足りたような、懶《ものう》い位の、和《なご》やかさが、反ってそういう悲しみの多い人のお気の毒な身の上を、その一々の悲しみをまで、残酷なほど鮮かに、生々《いきいき》と私に描かせていた……
この春は、祭や物詣《ものもうで》などにその少女が珍らしがって往きたそうにしているので、そう若いものばかりだけを出してやることも出来ないので、私も連れ立って一しょに出かける事もつい多かった。
しかし又春の末からは何かと物忌が重なり、家に閉《と》じ籠《こ》もりがちだったけれど、去年までは家の柱などに御守札などを押し付けてあったりするのを目に入れると、この夢ほども惜しいと思われない生をさも惜しんでいるかのような気がされて、自分らしくない事だと心苦しかったが、今年はどういうものか、そう云う厄除《やくよ》けのようなものすら無関心に見過ごされ、何事もないように静かに忌にこもっていら
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