ふんわりと掛け、太刀《たち》を佩《は》いたまま、紅色の扇のすこし乱れたのを手にもてあそんでいらしったが、丁度風が立って、その冠の纓《えい》が心もち吹き上げられたのを、そのままになさりながら、じっとお立ちになって入らっしゃる様子はまるで絵に描かれたようだった。
「まあ綺麗な方がいらっしゃること」奥の女房たちは、まだなんにも知らずに、裳《も》なども打ち解けた姿のまま、そんな事を囁《ささや》き合って、簾《みす》ごしにその青年を見ようとしているらしかった。折から、その青年の纓《えい》を吹き上げていた風が、其処まで届いて、急にその簾をうちそとへ吹《ふ》き煽《あお》ったものだから、簾のかげにいた女房どもはあれよと言って、それをおさえようとして騒ぎ出していた。恐らくその青年に、そのしどけない姿を残らず見られたろうと思って、私は死ぬほど羞《はず》かしい思いをしていた。
ゆうべ夜更けて帰ってきた道綱がまだ寐《ね》ていたので、それを起しに往っている間の、それは出来事だった。道綱はやっとそのとき起きてきて、「生憎《あいにく》きょうはみんな留守でして――」などと頭《かん》の君《きみ》に言っていた。風がひどく吹いていた日だったので、先刻から南面の蔀《しとみ》をすっかり下ろさせてあったので、それが丁度いい口実になった。
頭の君はそれでも強いて縁に上がられて、「まあ、円座《わろうだ》でも拝借して、しばらくここに坐らせて下さい」など言いながら、其処で道綱を相手にしばらく物語られていたが、「きょうは日が好かったので、ほんの真似事にでもこうして居初《いそ》めさせていただきました。これだけで帰るのはいかにも残念ですが――」と、すこし打《う》ち萎《しお》れた様子で、お帰りになって往かれた。
「思ったよりも品の好さそうな御方だこと」そんな事を思いながら、私は簾ごしにその後姿をいつまでも見送っていた。
それから二日程してから、頭の君は私のところへ留守中にお伺いした詫《わ》びなどを言いがてら、「本当にあなた様にだけでもお目にかかって、わたくしの真実な気もちをお訴えしたいのですが、自分の老いしゃがれた声などどうしてお聞かせ出来よう、などといつも仰せちれて私をお避けになるのは、それはほんの口実で、まだ私をお許し下さらぬからだと思われます」などと怨《うら》んでよこし「まあ、それはともかく、今夜あたりまた助《すけ》にだけでもお目にかかりに参りましょう」と言ってきた。暮れ方、頭の君はお言葉どおりお見えになられた。しようがないので、ともかくも蔀を二間ほど押し上げ、縁に灯をともして、庇《ひさし》の間にお通しさせる事にした。道綱が出て往って、「さあ、どうぞ」と言って、妻戸をあけ、「こちらから――」と促すと、頭の君はそちらへちょっと歩みかけられたが、急に思い返したように後退《あとず》さって、「お母あ様にここへはいるお許しを願って下さいませんか」と小声で押問答していた。やがて道綱が私のところに来て、それを取り次いだので「そんな端近くでも構いませんでしたら――」と返事をさせた。頭の君はその返事を聞くと、少しお笑いになりながら、もの静かに衣《きぬ》ずれの音をさせて、妻戸からおはいりになって来られた。
ときおり向うの庇の間から、頭の君と道綱とが小声で取交わしている話し声に雑《まじ》って、笏《しゃく》に扇の打ちあたる音が微かに聞えてくる。私どものいる簾の中は、物音ひとつ立てず、しいんと静まり返っていた。それから稍《やや》あって、頭の君はまた道綱に取り次がせて、私に「こないだはお目にかかれずに帰りましたので、又お伺いいたしました」と言ってよこした。そうやって何度も間に立たされている道綱が「早く何んとか言って上げませんか」としきりに私を責めるので、私はしょうことなくて几帳《きちょう》の方へ少しいざり寄っては見たものの、勿論、私の方から何も言い出すことはないので、そのまま無言でいた。頭の君はいざとなって、私に何んと言ったらよいのか、当惑なすって入らっしゃるような様子だった。なお、そのままにしていたら二人の間がいよいよ気づまりになって往きそうだったので、自分がそこにいる事を頭の君が或はまだお気づきにならないのかも知れぬと思って自分がそうしたようにお取りになればいいと、私は少し咳払いをした。ようやっと頭の君は口を切った。
志賀の里から誰にも知らさないようにしてこっそりと私の許《もと》に引きとられた少女の事をひそかに聞き、その物語めいた身の上に何んと云うこともなしに心を惹《ひ》かれているうちに、だんだんその未知の少女の事を心に沁《し》みて思いつめるようになったなりゆきを、最初は妙に取り繕ったような声だったが、次第に熱を帯びた声になって、頭の君は語り出されたのであった。私はそういう頭の君の話をはじめか
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