日私が見に往ってみると、それはもう残らず色が変って葉なんぞもすっかり萎《しお》れかえってしまっていた。――この頃まるっきりあの方のお見えにならない私の家のものといったら、まあ、こんな軒端の苗までも私の真似をして物思いをする見たいだなどと、又してもそんな事を考え出していると、そこへあの方から珍らしく御文があった。「いくらこちらから文をやっても返事がないので、はしたなく思われそうだから遠慮をしていた。今日でも伺いたいと思うが――」などと書いてある。御返事は上げまいと思ったが、側の者たちにかれこれ言われて、私はやっとそれを書いて持たせてやった。それからすぐ日が暮れた。まだそれが往きつかないだろうと思う時分に、あの方が往きちがいにお出になってしまった。皆に「何かわけがあおりなのかも知れません。何気ないようにして御様子をごらんなさいませ」などと言われて、私も少し気をつけていた。が、あの方は「物忌《ものいみ》ばかり続いていたのだ。もう来まいなどとおれが思うものか。どうもお前がすぐそうひがむのが、おれにはおかしい位だ」などといかにも裏もなさそうに仰ゃるので、こちらも何だか気の抜けてしまう位だった。「明日は用事があるから、又明後日でも――」などと仰ゃって帰って往かれたけれど、私もそれを本気にはしないものの、若《も》しかしたらと思い返えしているうちに、だんだん日数が過ぎて往くばかりだった。
 やはりそうだったのかと気がつくにつけ、前よりも一そう心憂く思われて、相変らず自分の思いつづけている事といったら、仏にお祈りしてでも何とかして死にたいものだと云うような事ばかりだったが、あとに一人残る道綱のことを考えると、それも出来そうもないのだった。「お前が早く成人して、安心の往けるような妻などに預けてしまえたら、どんなに好いだろうに。いま、わたしが死んだら、どんな思いをしてお前が一人でさすらう事だろうと思えば、ほんとうに死ぬのも死ににくい。まあ、形《かたち》でもかえて、世を離れたらと思うのだけれど――」と私が独言でも言うように言っていると、まだ深くは何もわからぬらしいが、あの子も悲しそうに「そうおなりになったら、まろも法師になりとうございます。この世に交わって居りましても、何になるでしょう」と言いながら、目に涙を一ぱい溜めている。私はそれを見ると、やっと気を取りなおしながら、いまの話を常談にしてしまおうとして、「そうなって鷹も飼えなくなられたら、どうしますか」と言うと、道綱はいきなり立ち上って往って、自分の飼っていた鷹を籠《かご》から出して矢のように放してしまった。それを傍で見ていたもので泣き出さないものはなかった。
 丁度その暮がたに、あの方から御文が来た。また天下の空言《そらごと》だろうと思えるので、気強く「只今は心もちが悪うございますので、いずれ後ほど――」とそのまま使いの者を返させた。そんな事もあった。

 七月、――お盆が近いので何かと世間では騒ぎ出していた。毎年母の盆供《ぼに》の事だけはあの方が几帳面《きちょうめん》になさって下すっていたのに、今年はどうなるのやら。もうあの方も私からお離《か》れになったのかと、亡き母も地下で悲しくお思いになるかも知れない、しかしまあ、もうすこし待って見ようと思っていたところへ、何時ものようにちゃんと盆供を調えて下すった上、御文まで添えてあった。私はそこで「亡くなった人の事はお忘れでないと見えます。しかしわたくしの事などは――いいえ、こんな果敢《はか》ない身の事などは、本当に自分でも忘れられたら忘れてしまいたい位なのですものを」と例によって少しひねくれて書いてやった。
 やがて相撲《すまい》の頃になった。もう十六になった道綱がしきりにそれへ往きたそうにしているので、装束をつけさせて、先ず殿のもとへと言いつけて出してやった。その夕方、あの方が車の後《しり》へでも乗せて送って来て下さるかと思っていると、他の人に送られて来た。その次の日も道綱は出かけて往ったが、夕方、また雑色《ぞうしき》などに送られて来た。子供心にも、いつもなら御一緒に送って下さるものをと、そうやって一人ぼっちで帰って来るのがどんな思いであろうに。……
 ところが、八月にはいって、或日の夕方、突然あの方がお見えになった。「明日は物忌《ものいみ》だから門を強く鎖《とざ》しておけ」などとお言いつけになって入らっしゃるらしかった。私はもう物も言われない位、胸が沸き立つような気もちがしていると、あの方は道綱をお側に引きよせられて、そんな私の方をちらっと見やっては、何かひそひそと耳打ちしていらしっていた。「我慢をしておいで」なぞと囁《ささや》いているのが、ふと私の耳にも入ったりする。しかし私はどうにもしようがなしに、黙ったまま向き合っていた。翌日も、一日中あの子をお側に置かれて、「おれの心もちはちっとも変らないのに、それを悪くばかりとるのだ」などとお聞かせになって入らっしゃるらしかった。
 それから、どうした事やら、不思議なほどあの方は屡《しばしば》お見えになるようになった。この頃急に大人寂《おとなさ》びてきたような道綱があの方のお心をも惹《ひ》いたものと見える。それはあの方が何時になくいろいろとあの子の御面倒を見て下さって、今度の大嘗会《だいじょうえ》には何か禄《ろく》を給わらせよう、それから元服もさせようなどと、仰《おっし》ゃり出しているのでも分かるのだった。私までも一と頃はいささか昔に返ったような気もちになりかけていた位だった。
 が、道綱の元服もとどこおりなく果てたかと思うと、またしばらく例の御物忌とやらでお見えにならないようになった。毎日のように、道綱は内裏《うち》に一人で出て往っては、また一人で淋しそうに帰ってくる。そんな或日の事、あの方が「きょうは往けたら往こう」などと御消息を下すったので、もしやと思ってお待ちしていたが、その夜も空しく更けて往くばかりだった。やがて気づかっていた道綱だけが、ただ一人で浮かない顔をして帰ってきた。そうして「殿も只今御退出になりました」などと語るのを聞いて、いくら夜が更けていたって昔ながらのお心さえおありだったならばこんな事はなさるまいに、と私は胸が潰《つぶ》れるような思いがした。それから、また、以前のように、音沙汰がなくなってしまっていた。

 やっと十二月になって、七日頃にあの方がちょいとお見えになった、何だかもう顔を見られるのも不快なので、几帳をよせて、その陰に引きこもっていると、お出《いで》になったばかりなのに、「日が暮れたな。どれ、これから参内せねば――」と仰ゃってお帰りになられたぎり、音信《おとずれ》もなくて、十七八日になった。
 その日の昼頃から、雨がそんなに強く降ると云うほどではなしに、ただ何となく降りつづいていた。こんな日なんかには若《も》しやと云うほどの気にさえなれず、私はしょうことなしに昔の事などを思い出しながら、昔の自分が心待ちにしていたすべての事と今の自分とは何と云うひどい相違だろう、あの頃はこんな雨風にだって御いといなさらぬものをと自分は信じていたのに、なんぞと考え続けていた。しかしいま、こうやってしみじみと思い返して見ると、その頃だって自分はちっとも気の緩《ゆる》むような心もちのした事なんぞはついぞ無かったようにも思われた。これと云うのも、一体、以前から自分の心が驕《おご》っていたのだろうかしらん。ああ、こんな事になるなんて自分は夢にも思わなかったものを。それほどまで私は大きな夢を持ちつづけていたの。……
 そんな雨がそのまま小止みなしに降りつづいているうちに、やがて灯ともし頃となった。南面《みなみおもて》には、この頃妹のところへお通いになって来られる御方がある。足音がするようだから、きっとその御方がおいでになったのだろう。私が「まあ、こんな雨だのによくいらっしゃるわね」と自分の沸き立つような心を抑えつけながら、独言のように言うと、私の前に坐っていた古女房が「昔の殿でしたら、これ以上の雨にだって、御いといなさらずにいらしったものですのに」とすこし泪《なみだ》ぐんで応えた。私はじっと無言のままでいたが、そのうちにふいと何か熱いものが頬を伝い出したのに気がついて、覚えず「思ひせく胸のほむらはつれなくて涙をわかすものにざりける」と口を衝《つ》いて出たままを口の中で繰り返し繰り返ししていた。そうしてとうとうその儘《まま》、そんな臥所《ふしど》でもない所で、私はその夜はまんじりともせずに過ごしてしまった。

   その四

 去年の春、呉竹を植えたいと思って人に頼んでおいたら、それから一年も立ったこの二月のはじめになって漸《や》っと「さし上げますから」と言ってきた。「いいえ、もう少しも長らえたいとは思えなくなりました此の世に、何でそんな心ないような事をして置けましょう」と私がことわらせると、「まあ、大へん狭いお心ですこと。あの行基菩薩《ぎょうぎぼさつ》は行末の人の為めにこそ、実のある庭木はお植えなされたと申すではありませんか」などと言い添えて、その木を送ってよこしたので、つい私もそれに気もちを誘われるがままに、「そう、此処はこの上もなくふしあわせな女の住んでいた所だと、見る人は見るがいい」と思って、胸を一ぱいにさせながら、それを植えさせた。
 それから二三日して、雨がはげしく降り、そのうち東風までも吹き加わって来たので、あの呉竹はどうなったかしらと思って見やると、もうそれは二三本傾いてしまっていた。早く元のようにしてやりたいと思いながら、雨間《あまま》を待っているうちに、しかしこう云う自分だって、何時その行末はこんな思いがけないような事になるかも知れないのにと、またしても例の物思いをし出そうとしている自分に気がつくと、私はもうそんな自分をば勝手に一人で苦しませるために、さっきの呉竹がますます傾き出しているのをも、わざとそのままにさせて置いた。

 この頃あの方はずっと近江とか云う女のもとへお通い詰めだと云う事をお聞きしていた。
 そんな或日の事、あの方から珍らしく御消息があって「私の心の怠りでもあるが、いま忙しい事も忙しいのだ。夜分でもと思うけれど構わないか。何だかお前が怖いような気もするが――」などと書いておよこしになった。私は「只今気分が好くありませんので何も申し上げられません」と素っ気ない返事をやったが、そのすぐ跡からそんな返事をやった事でもって自分から絶え入るような思いをしていると、その夜、あの方はいかにも平気そうな御様子をなすってお見えになった。ほんとうに悔やしいと思って口も利かずにいると、あの方は悪びれもせずに常談ばかりお言いになっていらしった。それが私にはとても辛くて辛くて、とうとうこの日頃ずっと我慢しつづけていた事をお訴えし出していると、そのうちにあの方は何とも御返事をなさらなくなってしまった。そうしていつの間にかもう寐入《ねい》ってしまわれたようだったので、私は急に気抜けがしてそのまま黙っていると、その時ふいとあの方は薄目をお開けになって、そう云う私に「どうしたのだ。もう寐てしまったのか」と意地悪そうにお笑いかけなすった。けれども、私はもう石のように押し黙ったぎり、そのまま夜を明かしてしまったので、翌朝あの方は物もお言いにならずにお帰りになられた。
 それから二三日するかしないうちに、あの方は何事もなかったかのように、例の縫物などを持って来させて、「これを仕立ててくれ」などと言っておよこしになった。が、私はそれには手もつけずに、そっくりそのままそれを返えしてやった。

 三月も末近くなってから、父が京に上って来られたので、私はあんまりこうして暮してばかり居ても息苦しくって溜《たま》らなかったし、それに忌《いみ》も違《たが》えがてら、しばらく父の所へ往くことにした。そちらで、この間から思い立っていた長精進もはじめようかと思い、いろいろその支度をし出しているところへ、あの方から御文があった。相変らず「勘当は未だなのか。もう許してくれるなら、暮方にでも往きたいがどうだ
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