を読んでいると、何くれとお書きになって、最後に「帳《とばり》の柱に結わえて置いた小弓の矢を取ってくれ」と言われるので、まあ、あの方のこんなものが残っていたのにと、やっと気がつき、それを取り下ろして持たせてやるような、悔やしい事さえもあった。
 そんな風に、あの方がますます私からお離《か》れがちになっていられる間も、私の家は丁度あの方が内裏《うち》から御退出になる道すじにあたっていたので、夜更けなどに屡《しばしば》あの方が私の家の前をお通りすぎなさるらしいのが、折から秋の長い夜々のこととて、ともすれば私は目覚めがちなものだから、いくら聞くまいと思っていても、手にとるように耳にはいってくる事がある。そんな時などには「何とかしてあれだけは聞かずにいたいものだが――」と思いながら、しかもその一方では、いましがた私の家の前をつづけさまに咳《しわぶき》をなさりながらお通りすぎになったあの方が、だんだんその咳と共に遠のいて往かれるのを、何処までも追うようにして、私は我知らず耳を側立《そばだ》てているのだった。……

   その二

 それから十年ばかりと云うもの、私の父はずっと受領《ずりょう》として遠近《おちこち》の国々へお下りになっていた。たまさかに京へお上りになっても、四五条のほとりにお住いになるので、一条のほとりにあった私の家とは大へん離れていた。それで、こうやって私たちが人少なに住んでいた家は、誰も取《と》り繕《つくろ》ってくれるような者なんぞ居なかったので、次第次第に荒れまさって来るのを、私はただぼんやりと眺めながら、漸《ようや》く成長して来る道綱一人を頼みにして、その日その日をはかなげに暮しているばかりだった。
 そのうちにやっとその幼い道綱が片言まじりに物が言えるようになって来たが、それも、いつ聞き覚えたのか、あの方がいつもお帰りの時に、「そのうちに又――」などと仰《おっし》ゃって出て往かれるのを、「又ね……又ね……」などと口真似をして歩きまわったりしているのだった。――そのようなわが子のあどけない姿を見て覚えずほほ笑まされながらも、どうしてまあこうも自分はこんな幼な子の無心の振舞の中にすら、それに写る自分の悲しみをしか見出せないのだろうと歎かずにはいられないのだった。
 こういう私たちの日頃の有様を御覧になっても、あの方は一向|無頓著《むとんじゃく》そうに、たまにお出《いで》になったかと思うと、又すぐお帰りになって往かれた。大かた私たちが心細がっているだろうとさえもお思いにはならないものと見える。いつも云いわけがましく「この頃は為事《しごと》が多いので――」などと仰ゃっては入らっしゃるけれど、まあちょっとでもこれに目をお留めなすったら、この数知れぬほどな蓬《よもぎ》よりもまさかお為事が多いとは仰ゃれまいにと、私はわが家の荒れ放題になった庭をいまさらのように見やっては、少し自嘲的な気持にもなって、それがますます荒れ果てるがままに任せておいた位だった。
 そんな私に向って、「まだお若い身空ですのに、どうしてそのようにばかりして入らっしゃるのですか」と気づかっては、熱心に再婚などを勧めてくれる人もあった。それだのに、あの方はまたあの方で、「おれの何処が気に入らないのだ」と云った顔つきをなすって、少しも悪びれずにいらっしゃるので、本当にどうしていいのやら、私は思いあぐねるばかりだった。何んとかしてこの胸に余る思いをつぶさにこの人にも分からせようがものはないかと思えば思うほど、私はあの方に向っては一ことも物を言うことが出来ずにしまうのだった。
「今のようにときどき思い出されたように入らっしゃるよりか、いっその事もうすっかりお絶えになって下すった方がどんなに好いか知れやしない」などとまで私はその日頃考え出していたものだった。又意地の悪い事にはそんな時にかぎってあの方がひょっくりお見えになったりする。「どうして私のところへなぞ入らしったのですか」と云った顔をしたぎり、私が何も言わずにいるものだから、あの方も何だかひどく工合悪そうにしていらっしゃる。まあ、折角こうしてお出になっていられるのだから、こうばかりしていてもと、つい弱気になろうとする自分を、私は一生懸命に抑えつけて、あの方がいかにも物足らなそうにお帰りになるがままにさせている。……
 そんな事ばかり繰り返しているうちに、とうとう或日などはあの方もすっかり気を悪くされたと見え、つと端《はし》の方へ歩み出されてから、幼い道綱をお呼び出しになって何か耳打ちをなすっていらしったが、そのままいつにない怨《うら》み顔《がお》をなされて出て往かれてしまった。あの子ははいって来るなり、私の前でしくしく泣いている。「どうしたの」と尋ねて見ても返事もせずにいた。あの方にきっとおれはもう来ないぞ、とでも言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろ慰《なだ》めたり賺《すか》したりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信《おとずれ》さえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時に鬢《びん》をお洗いになった※[#「さんずい+甘」、第3水準1−86−60]坏《ゆするつき》の水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面に塵《ちり》が溜《た》まっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。

 そういう一方に、あの坊《まち》の小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはお出《いで》にならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたいものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそうだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだと聞いた時には、「まあ何んていい気味だろう。急にそんなになってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私の苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などと考えて、本当に私は胸のうちがすっぱりとした位だった。――こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけるのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うところに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかとも思えるので、この私と云うものをすっかり分って貰うためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記につけて置きたいのである。

 さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事である。その閏《うるう》五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何処と云うこともなしに苦しくって溜《た》まらなかった。もうどうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そんな命をさも惜しがってでもいるようにあの方に見られたくはないと思って、私は痩《や》せ我慢《がまん》をしていたが、側の者たちがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼《からしやき》なんぞという護摩《ごま》なども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだった。――そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、あの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来て下さらなかった。何でも新しい御邸《おやしき》をおつくりなさるとかで、そちらへ毎日のようにお出《いで》になるついでに、ちょっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下りなさらずに御言葉だけかけていらっしゃるきりだった。そんなような或物悲しく曇った夕暮に、私がすっかり気力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御覧」とことづけて寄こされた。私は只「生きているのかどうかも分かりません程なので――」とだけ返事をやって、そんな蓮の実なんぞは見る気にもなれずに、そのまま苦しそうに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい御邸だって、そのうち見せてやろうなどと仰《おっし》ゃって下すってはいるものの、こうやって自分の命のほども分からず、それにまたあの方のお心の中だって少しも分からないしするので、どうせ自分はそれをも見ずにしまう事だろうなどと考え続けていると、その心細い事といったら何んともかとも言いようのない程であった。
 そんな工合に何時までたっても同じような容態だったので、名高い僧なども呼んでいろいろと加持を加えさせて見たけれど、一向はかばかしくはならずにいた。そこでしまいには、事によるとこのまま自分もはかなくなってしまうのかも知れない、そうなったって自分の身なぞは露ほども惜しくはないけれど、只あとに一人きり残される道綱がどうなることか知らん、と私は急にそれが気がかりになって、或日、いかにも心もとないあの人だけれど、まあそれでもと、苦しいのを我慢しいしい、脇息《きょうそく》によりかかりながら、やっと筆を手にして、遺書と云うほどのものではないが、ともかくもあの方に道綱の事をくれぐれもお頼みし、それからその端に「他の人には言われないようなおかしな事までいろいろ申し上げましたけれど、どうぞそんな事をもお忘れなさらずにいて下さいませ」などと書き添えていた。がそのうち、知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に、あの方に対する自分の気もちがいつもほど苦くはなくなっているのに気がついた。そうしてあの方との事で今の自分に残っているものと云ったら、不思議に心もちのいい、殆ど静かな感じのものばかりであった。恐らく、私の身の極度の衰えがそういう静けさを自分の心に与えていたのでもあろうか。

 そうこうしているうちに、六月の末頃からいくぶん物心地がついて来たようで、秋も過ぎ、冬になった時分にはもう大ぶ私も人心地がしてきた。その間に、あの方たちは新築した御邸の方へお移りなって往かれたが、私だけはやはり思ったとおり、この儘《まま》此処にこうしておれば好いと云う事になったらしかった。
 が、そうなったらそうなったで、別にどうと云うこともありはしないのに、やっと恢復《かいふく》し出した私はその頃になって反って何だか気もちが落着かずにばかりいたけれど、十一月になってから雪がたいへん降った。そんな雪のふりつづいた頃、どうしたのか、まだ充分に癒《い》え切《き》っていなかったらしい身うちにめっきりと衰えが感ぜられ、世のさまざまな事、ことにあの方の事なぞが言いようもなく辛く思われた一日があった。私はその日は日ぐらしそんな雪を眺めたり、又、いつぞやの殆ど死ぬばかりだったような日々の事だの思い出したりしながら、「ああ、雪なんぞだったら、いくらこんなに積ったって、やがてまた消えて往ってしまえるのだ。それだのに、私は一生のうちにたった一度の死期をも失ってしまったような……」などとさえ悔やみ出していた。……

   その三

 そのうちに道綱も漸《ようや》く成人して来た。が、その頃の事になると、まだついこの間の事のように何もかも自分に一どきに思い出されてしまうものだから、さてそれを書こうとすると、反って何だか書かずともよいような事までも書いてしまいそうな気がしてならない。……
 先ず思い出すのは、これも書かずともよい事かも知れないが、まあ、思い出すがままに書いて見ると、或年の丁度|若苗《わかなえ》の生い立つ頃、――そう、若苗といえば、そんな事のあった数日前、私はあんまり所在がないので草などの手入れをさせていたら、たくさん若苗が生えていたので、それを取り集めて母屋の軒端にそっくり植えさせて水なども気をつけてやらせていたのだった。が、その
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング