」などとある。私がそのまま返事を出さずにいると、人々がそれではあんまりだと言ってうるさいので、「二た月もお見えにならなかったのに、不思議な御文ですこと」とだけ返事を書いてやった。少しでも早く静かに落着きたいと思うので、急いで父の家へ引き移って往った。月のない空に、夜まで一そう更けまさって見えた。いつものように私の胸の中は沸きたぎるようだったけれど、父の家は手狭でもあったし、生憎《あいにく》人もごたごたしていたので、息もろくにつけずに、胸に手を置いたような、重くろしい気もちでその夜は明かした。
 思ったとおり、あの方からはそれっきり何の音信もなかった。

 四月にはいると、道綱を側に呼んで「お前も一しょにおし」と言って、いよいよ長精進を初めた。と云っても別にものものしくはせず、ただ脇息《きょうそく》の上に香を盛った土器《かわらけ》を置いたぎりで、その前で一心に仏にお祈りした。その祈る心も只「大へん私は不為合《ふしあわ》せでございました。昔から苦しみばかりの多い身でございましたが、この頃はほんとうにもう生きている空もない程でございます。どうぞ思い切って死なせて、菩提《ぼだい》をかなえさせて下さいませ」などとばかりで、少しさしぐみながらお勤を続けていた。
 ああ、一昔前、此頃は女だっても数珠《ずず》をさげ経を手にしていない者はない位だと人々の語るのを聞き、「そんな尼のような御顔をなすっていらっしゃるから寡《やもめ》におなりになるのでしょう」などと非難めいた事まで言った、その頃の自分の心は何処へ行ってしまったのやら。そんな事を私が言っていたのを聞いた人々がもしいまの私を見たら、こうして明け方から日の暮れまで倦《た》ゆまずにお勤しているのを、まあ、どんなに笑止に思うことだろう。こうまで果敢《はか》ない人生をどうしてあんなに気強い事が言えたのかと、いまさらながら昔の自分のそんな無信仰が悔やまれてならないのだった。
 そうやって二十日ばかりお勤をしつづけている間に、私は夜分になると何だか苦しいような夢ばかり見せられていたが、或晩などは、私はそんな夢の中で、腹のなかを這いまわっている一匹の蛇のために肝《きも》を食べられていた。――あんまり恐ろしかったので思わず目を覚ましたが、それからまた私がうとうととしかけると、また夢でもって、それを癒すには顔に水を注ぐが好いと、何人とも知れずに教えてくれた。
 そんな夢の吉凶などは自分にはわからないけれど、こうやって此処に記して置くのは、このような私の身の果てを見聞くだろう人が、夢とか仏などは果して信ずべきか否か、それによって決めるがよいとも思うからである。

 五月になってから、私は物忌も果てたので、自分の家へ帰った。私の留守の間、すっかり打棄《うっちゃ》らかしてあったので、草も木も茂るがままに茂っていたところへ、程もなく長雨《ながさめ》になってしまったものだから、前よりも私の家は一そう鬱陶《うっとう》しい位であった。雨間《あまま》を見ては、お勤の暇々に、私も少しずつ手入れをさせ出していたが、そんな或日の事だった。私の家の方へあの方のお召車らしいのがいつものように仰々しく前駆させながらお近づきになって来られた。丁度その時私はお勤をしていたところだった。人々は「殿がいらしったようだ」などと騒ぎ出していたが、どうせいつものようなのだろうと思いはしたものの、私も胸をときめかせていると、やっぱりあの方は私の家の前はそのままお通り過ぎになってしまわれた。皆はもう物も言えずに、ただ顔と顔とを見合わせているばかりらしかった。私だけは何気なさそうに、さっきから止めずにいたお勤をなおも続けているようなふりをしていたが、しかし心の中には何かいままでについぞ覚えた事のないような、はげしい怒りにも似たものを涌《わ》き上がらせていた。――

 六月の朔《ついたち》の日、「お物忌のようですから」と門の下から御文をさし入れていった。おかしな事をすると思って、披いて見ると、「もうそちらの物忌も過ぎただろうに、何だっていつまで余所《よそ》へ往っているのだ。どうもわかり難そうな所なので、つい伺わずにもいるが。――こちらの物詣《ものもうで》は穢《けが》れが出来たので止めた」などど書いてある。こちらへもう私の帰って来ている事を今までお聞きにならずにいる筈はないと思われるので、一層腹が立ってならなかったが、やっとそれを我慢して、「こちらにはずっと前から帰っておりました。そんな事なぞどうしてあなた様にお気づきなされましょうとも。わたくしの知った所なんぞとは違った、思いもつかないような所へしじゅう御歩きなされていらっしゃるのでしょうから。――何もかもみな、今まで生き長らえている私の身の怠りなのですから、いまさら何も申し上げようもござりませぬ」と返事を書いて持たせてやった。
 本当にこんな風にときどき思い出されたように何か気安めみたいな事を言って来られたりなんかすると、反って私には辛くってならない。不意にでもあの方にやって来られて、またこの前のように侮やしい事もないとはかぎらない。こんな私なんぞは、いっその事これっきり何処かへひそかに身を引いてしまった方がいいのではないかしら。――「そう、それがいい、――そうだ、西山にはこれまでもよく往った寺があるけれど、あそこへ往って見よう。あの方の御物忌のお果てなさらぬうちに――」と私は突然思い立つなり、一日も早くと思って、四日の日に出かけることにした。
 丁度その日はあの方の御物忌も明けるらしいので、気ぜわしい思いで、いろいろ支度を急がせていると、人々が上莚《うわむしろ》の下から何か見つけ出して「これは何でしょう」などと言い合っていた。ふと見ると、それはいつもあの方が朝ごとにお飲みなすっていた御薬が檀紙《たとうがみ》の中に挿まれたままになって出て来たのだった。私はそれを受け取って、その紙の上に「所詮生れ変らねばと思っては居りますけれど、何処ぞあなた様がわたくしの前を素通りなされるのを見ずにもすむような所がござりましょうかと存じまして、今日参ります。ああ、また問わず語りをいたしてしまいました」と書きつけ、その中に元のように御薬を入れて、道綱に「もし何か訊《き》かれそうだったら、これだけ置いて早く帰っていらっしゃい」と言いつけて持たせてやった。
 それを御覧になると、余程あの方もお慌てなされたと見え、「お前の言うのも尤もだが、まあ何処へ往くのだか知らせてくれ。とにかく話したいことがあるので、これからすぐ往くから――」と折返し書いておよこしになった。それが一層せき立てるように私を西山へと急がせた。

   その五

 山へ行く途中の路はとり立ててどうと云うこともなかったが、昔、屡《しばしば》ここへあの方とも御一しょに来たことのあるのを思い出して、「そう、四五日山寺に泊ったことのあったのも今頃じゃなかったかしら、あのときはあの方も宮仕えも休まれて、一しょに籠《こも》って入らしったっけが――」などと考え続けながら、供人もわずか三人ばかり連れたきりで、はるばるとその山路を辿《たど》って往った。
 夕方、漸《や》っと或淋しい山寺に着いた。まず、僧坊に落ちついて、あたりを眺めると、前方には籬《まがき》が結われてあり、そこいら一めんに見知らない夏草が茂っていたが、そんな中にぽつりぽつり竜胆《りんどう》がもう大かた花も散ったまま立ちまじっているのが佗《わ》びしげに私の目に止まった。
 湯などに入ってそれから御堂にと思っているところへ、里の方から人が駈けつけて来たようなけはいであった。留守居の者の文を急いで持ってきたのだった。読んで見ると、私の出かけた跡にすぐ殿からお使いの者が見えて私を引き止めるようにと云いつかって参った由、留守居の者が私の出立《しゅったつ》の模様やそれから日頃の有様などを精《くわ》しく話して聞かせると、その男までつい貰い泣きをし、「ともかくもその事を殿に早くお知らせ申しましょう」と急いで帰った由、――やがてそちらへ殿が御自身で御迎えに往かれる事になりそうですからその御用意をなさいませなどと細々と書いてきた。あれほど此処へ来ている事をあの方にはお知らせしないようにと固く言い置いてきたものを、あの人達ったら何んの考えもなしに、その事ばかりでなく、おまけに有ること無いことまで大げさに話して聞かせたのだろう。ああ、何だか物々しい事になってしまいそうな、――と思いながら、ともかくもそうなったらそれまでと、湯の事を急がせて、御堂に上った。
 暑かったので、しばらく戸を押しあけて眺めやっていたが、此処は丁度山ぶところのようなところになっていると見える。周囲にはすっかり小さな山々が繞《めぐ》っていて、それらが数知れぬような木々に覆われているらしいけれど、生憎《あいにく》月がないので、殆ど何も見わけられない……
 そうやって戸を押しあけたまま、御堂で初夜《しょや》を行っているうちに、何時なのだろうかしら、時の貝を四つ吹くほどになった。そのとき急に大門の方に人どよめきがし出したので、巻き上げていた簾《みす》を下ろさせて透して見ていると、木の間から灯がちらちらと見えてくる。やっぱりあの方は入らしったのだ。
 門のところまで、道綱は急いで御迎えに出て往ったらしかった。やがて戻ってきて、あの方が車にお立ちになったままで「御迎えにやって来たのだが、生憎きょうまで穢《けが》れがあるので、車から下りられない。何処かに車を寄せる所はないか」と仰《おっし》ゃっていると取り次いだが、私はそれには全然とり合わずに、「何をお考えちがいなすって、そんな向う見ずな御歩きをなさいます。今宵だけでもと思ってわたくしは此処へ参っているのです。もう夜も更けておりましょう。早くお帰りなさいませ」と返事をさせた。それからそんな文の往復を何度となく為合《しあ》った。一丁ほどの石段を上ったり下りたりしなければならないので、それを取り次いでいた道綱は、しまいには疲れ果てて、ひどく苦しそうな位にまでなった。その上、殿が、これ位の事がとりなせないのか、腑甲斐ない奴だな、などと大へん御気色が悪いと言って、いかにも切ながっていた。それを見ていた側の者たちはしきりに不便《ふびん》がっていたが、私は何処までも自分を守り通して拒絶したので、あの方もとうとう「よしよし、おれは穢れがあるからこのままこうしても居られない、車をかけてくれ」と[#「と」は底本では「とと」]仰ゃってそのまま御帰りなさるらしかった。私が覚えずほっとした気もちでいると、思いがけず、道綱までが、「まろもお送りして往きます。お車の後《しり》へでも乗せて往っていただきましょう。そうしてもう二度とまろもこちらへは参りませんから」と言い残したぎり、泣き顔をして出て往ってしまった。どんな事になったってこの子だけは自分のものだと思っていたのに、まあ、この子まで、何んて酷《むご》いことを言うのだろうと呆れながら、私はもう物も言えずにいた。が、しばらくして、皆がもう出て往ってしまっただろうと思える時分になって、ひょっくりと道綱だけが戻ってきた。そうして「お送りいたそうとしましたら、殿がお前はこちらで呼ぶとき来ればいいと仰せになりました」と言うなり、もう溜《たま》らなくなったように、そこに泣き崩れていた。本当にどういうお気もちなのだか自分にもわからなかったが、「いくらあの方だってお前までをこの儘《まま》になさりなどするものですか」と言いすかしながら、さまざまに道綱を慰めているうちに、いつか時は八つになっていた。こんな夜更けてからのお帰りを皆はお案じしながら、「路も大へん遠いのに、御供の人々も居合せたものだけしかお連れなウらなかったと見え、京の内の御歩きよりも人少なだったようでしたけれど――」などと言い合っていたが、私だけは無言のまま、強いてつれないような様子を見せていた。

 しかし夜の明けかかる時分、道綱がゆうべの事をしきりに気にしては「御門のところからでも御機嫌伺いをして参りましょうか」と言いつづけているので、少しいじら
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