。今宵だけでもと思ってわたくしは此処へ参っているのです。もう夜も更けておりましょう。早くお帰りなさいませ」と返事をさせた。それからそんな文の往復を何度となく為合《しあ》った。一丁ほどの石段を上ったり下りたりしなければならないので、それを取り次いでいた道綱は、しまいには疲れ果てて、ひどく苦しそうな位にまでなった。その上、殿が、これ位の事がとりなせないのか、腑甲斐ない奴だな、などと大へん御気色が悪いと言って、いかにも切ながっていた。それを見ていた側の者たちはしきりに不便《ふびん》がっていたが、私は何処までも自分を守り通して拒絶したので、あの方もとうとう「よしよし、おれは穢れがあるからこのままこうしても居られない、車をかけてくれ」と[#「と」は底本では「とと」]仰ゃってそのまま御帰りなさるらしかった。私が覚えずほっとした気もちでいると、思いがけず、道綱までが、「まろもお送りして往きます。お車の後《しり》へでも乗せて往っていただきましょう。そうしてもう二度とまろもこちらへは参りませんから」と言い残したぎり、泣き顔をして出て往ってしまった。どんな事になったってこの子だけは自分のものだと思っていた
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