しい気もし、文をもたせて京へ立たせてやった。「ゆうべはずいぶん向う見ずな御歩きと存じましたが、夜も更けておりましたので、ただみ仏に無事にお送り下さるようにとお祈り申し上げて居りました。それにしても何をお考えちがいなすって入らっしゃるのでしょうか。大へん頭が痛みますので、いますぐ帰ることも難しいかと思われますが――」そんな事をなにくれと書いて、その端に、「途々《みちみち》も、昔御一緒に参ったことのあるのを思い出しながら参りましたが、ほんとうにあなた様の事ばかりお思い申し上げて居るのです。やがてわたくしも此処を下ります」と書き添えた。
 道綱を立たせてやってから、明け方の空をぼんやりと見やっていると、雲だか、霧だか、分からないようなものが、下の方から見る見るうちに涌《わ》いて来て、それが互に鬩《せめ》ぎ合《あ》ってはどちらとへともつかず動かされながら、そこいら一面を物凄いほど立ちこめ出していた。……

 昼頃、京から道綱は帰ってきた。「御留守でしたので御文は預けて参りました」という事だった。そうでなくとも、どうせ御返事はないに極まっていると私は思った。
 さて、昼はひねもす例のお勤をし、夜は主のみ仏にお祈りをする。周囲は山ばかりだから、昼間だって人に見られる気づかいはなかったので、簾《みす》などもすっかり巻き上げさせたぎりだった。――ただ、ときどき思い出したように間近かくの木々から鳥が何やら叫びながら飛び立つのに、覚えずぎくりとして誰か人でもと、あわてて簾を下ろしかけては、漸《や》っと見知らない鳥が二三羽|翔《か》け去《さ》っただけなのに気がつくような事もあった。そんな時など、それほど空《うつ》けたようになっているおりおりの自分の姿が、私にも何かしら異様に思われたりするのだった。

 そのうちほどなく身が穢《けが》れになったので、私は一度里へとも思ったが、すぐ思い返して、その間だけ寺から少し離れた或みすぼらしい山家に下りている事にした。それを聞きつけて、京から伯母などがやって来てくれた。そんな馴れない山家住いだものだから、何だかちっとも気もちが落着かずに五六日を過しているうちに、もう月の中程になってしまった。山陰の暗いところを蛍が小さく光りながら飛ぶのがしきりなしに見えた。里でまだしも物思いの少なかった頃には、ついぞ二声と続けて聞いたことのないのを怨《うら》めしがった時鳥《ほととぎす》も、いまはすっかり私にも打ち解けて、殆ど絶え間もなしに啼《な》いていた。水鶏《くいな》だって、わが家の戸を叩いたかと思うくらい近くを啼いてゆく。――それにしても、何んとまあ物思い自身の巣くっているような栖《すみか》なのだろうかしら。それは自分から思い立ってこうして居るのだから、誰も訪れてくれる者はなくとも、ちっとも辛いなどとは思いもしないし、むしろ気安くていいとさえ思ってはいるものの、只、歎かわしいと思うのは、こう云う物思いにもってこいのような栖をさえ自分から好んでせずにはおられなくなった自分の宿世《すくせ》の切なさと、――それともう一つは、自分の死後に、日頃こうして自分の傍を離れずに長精進なども共にして頼もしげに見える此道綱が、他には力にすべき人も居ないのでさぞ世間にも出にくいだろう、それにこうして精進している自分と同じような粗末な物をばかり食べさせているので、この頃はよく喉《のど》にも通らぬらしいのを見るのが自分には辛くてしようがない。――そんな事を考え続けながら、こんな思いを自分もし又子供にまでさせて漸っとこうして自分が気安くしているのかと思うと、遂にはその気安さそのものさえ自分を苦しめ出してくるのだった。ああ、私は一体どうしたらよいのであろうか。……

 夕暮の入相《いりあい》の音、蜩《ひぐらし》のこえ、それからそれにつれて周囲の小寺から次ぎ次ぎに打ち鳴らされる小さな鐘などをぼんやり聞いていると、何んともかとも言いようのない気もちがされて来るのだった。
 身の穢《けがれ》れている間は、一日中、何もすることがないので、端近くに出ては、私はそうやってしまいには自分を言いようもなく苦しめ出すのが知れ切っているような物思いばかりをしていたのだったが、或夕方も私がそんな端近くでいつまでもぼんやりしていると、後ろから道綱が気づかわしそうに「もうおはいりになりませんか」と私に声をかけた。子供心にも私に物をあんまり深く思わせまいとするのだろう。しかしもう少しこうして居たいと思って、そのまま私がじっとしていると、再び道綱が「何だってそんな事をなすって入らっしゃるのですか。お体にだってお悪くはありませんか。それに、まろはもう睡くってたまりませんから」と言いかけるので、私はついそんな子供にまで、まるで自分自身に向って言いでもするように、「お前の事だけが気になって、
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