かげろうの日記
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尤《もっと》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一向|無頓著《むとんじゃく》

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(例)※[#「さんずい+甘」、第3水準1−86−60]
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なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する
かげろふの日記といふべし。
                    蜻蛉日記

   その一

 半生も既に過ぎてしまって、もはやこの世に何んのなす事もなく生きながらえている自分だが、――一たい顔かたちだって人並でないし、これと云った才能もあるわけではないのだから、こんな風にはかない暮しをしているのも尤《もっと》もの事だとは思うものの、只こうやってぼんやりと明し暮しているがままに、世の中に多い物語などをおりおり取り上げて、その端《はし》などを読んで見ると、ずいぶん有り触れた空言《そらごと》さえ書いてあるようだから、自分の並々ならぬ身の上を日記につけて見たら、そんなものよりも反って珍らしがってくれる人もあるかも知れない。それにまた、世間の人々が、私のようにこんなに不為合《ふしあわ》せになったのは、あまりにも女として思い上っていたためであろうかどうか、その例《ためし》にもするが好いと思うのだ。

 何分にももうすべて一昔も前の事なので、さて、何から書き出したら好いのだろうか知ら。まあ、それ以前の取るに足らない程の、好《す》き事《ごと》なんぞは、それはそれとして、――今からもう十何年か前の、そう、たしか夏の初めだったと思う、その頃はまだ柏木《かしわぎ》と呼ばれていたあの方が始めて私に御文をよこされたのである。その最初の時からして、あの方と云ったら外のお方とは変ったなされ方で、普通だったら下《しも》じもの女にでもその御文を届けさせようものを、あの方は役所で私の父に先ず真面目とも常談ともつかずに仄《ほの》めかされて置いて、こちらでそれをどう思おうなんぞという事には少しもお構いなさらずに、或日、馬に乗った男に御文を持って来させられた。その使いの者がまた使いの者で、「どなた様から」と訊《き》かせることも出来ない程、はしゃぎ切っていたので、こちらの方ではしかたがなしにその御文を受取ってしまってから、はじめてそれが柏木様からのものである事を知ったのだった。が、見れば、御料紙なんぞもこういう折のにかなったものではなかったし、大層御立派だとお聞きしていた御手跡もこれはあの方のではないのではあるまいかと思われる程のものだったし、どうもすべてが疑わしいので、御返事はどうしたものだろうかと迷っていると、昔気質《むかしかたぎ》の父はしきりに恐縮がって、「やはりお出しなさい」と私に無理やりにそれを書かせた。それをきっかけにして、それからもあの方は屡《しばしば》私に同じような御文をおよこしになったけれど、最初のうちは私の方ではそれほど熱心になれず、返事も出したり、出さなかったりしていた位だった。
 そう云ったごく通り一遍な消息をやりとりしているうちに、その夏も過ぎて、秋近くなった頃、どうした事からだったろうか、とうとう私はあの方をお通《かよ》わせするようになった。そうしてその頃はといえば、あの方は何を措《お》かれても、殆ど毎夜のように私の許《もと》にお通いになって入らしったが、そのうちにやがて十月になった。

 その月半ば、私の父は陸奥守《むつのかみ》に任ぜられて奥州へ御下りにならねばならなかった。――それはまだ、私があんまりあの方にもお馴れしても居らず、お会いしている時だって、ただもうさしぐんでいるばかりだったのを、反ってあの方はいとしがられ、一生お前の事は忘れまいなどと御誓いなすったりせられはしたものの、果して人の心なんぞは頼みになれるものやら、なんとも言えず不安で、自分の悲しい行末ばかりが思われてならないような日頃であった。――ところで、いよいよ父たちが出立すべき日になった。みんなが別れを惜しんでいる間に、父はふいと私のもとに入らしって、御形見の硯《すずり》に何かお文のようなものを押し巻いて入れて、それからまた黙って出て往かれたようだったが、私はそれをすら見ようともせずにいた。とうとう皆が出立した跡になって、私は少しためらいながら、それにいざり寄って、何だろうと開けて見ると、「君をのみたのむ旅なる心には行末とほく思ほゆるかな」と認《したた》められてあった。見るべき人が見るようにと書き残されたのだろうと思って、私は、それをそのまま元のように収めて置いた。それからしばらくして、あの方がお出《いで》になったけれど、目も見合わさずに、私が
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